大日本帝国軍人、中国共産党員、中国国民党員、台湾団結聯盟精神的指導者、特務の監視対象、台湾大学教授、テロリストの友達、独裁者の側近、台北市長、中華民国総統、キリスト教徒、親日家、金権政治家(黒金教父)、汚職疑惑の被告、ミスター・デモクラシー、漢奸、台湾の国父──。

 これはいずれも、8月14日に葬儀がおこなわれた中華民国(台湾)の元総統・李登輝が97年間の人生のなかで背負った立場や肩書、ニックネームである。とても同一人物とは思えないほど、彼はさまざまな身分を背負ってさまざまな活動をおこない、毀誉褒貶を受けてきた。

 李登輝はもとは優秀な農業学者だったが、48歳のときに総統の蒋経国に請われて独裁国家・中華民国の技術官僚になり、いつの間にか出世して1988年の蒋経国急死を受け代理総統に就任。上からの改革を進め、1996年には中華圏の歴史上初の民選総統になった。ただ、2000年の総統選で後継者の連戦が落選したことで国民党を追われ、それからは民進党を応援する側に回った。

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 ひとまず、彼の後半生の経歴を簡単に説明するならそういうことになる。

8月7日、白金台の台北駐日経済文化代表処の敷地内に設けられていた李登輝の追悼所。7日までに3000人以上の人が記帳に訪れた。筆者撮影

2つの名前、3つの政党、4つの言語

 ただ、辞書的な説明だけでは李登輝の多様な顔は見えない。彼は台湾語を母語、日本語をほぼ第2母語とし、古文の読解や漢文の書き下しもできた。さらにはカタカナ読みっぽい独特の発音ながら、標準中国語と英語を実務レベルで使いこなせたほか、青年時代にはドイツ語とフランス語も多少かじっていた。

 日本統治時代には「岩里政男」という2つ目の名前を持ち、青年期に中国共産党、壮年期に中国国民党、老年期に台湾独立派の台湾団結聯盟という、主張が完全に異なる3つの政党に属した(台聯は正式入党なし。また共産党入党は本人の証言が二転三転しているがほぼ確実とみられる)。また、大学院を含めれば京都帝大・台湾大学・アイオワ州立大学・コーネル大学の4つの大学で学んでいる。

 本人のアイデンティティも、時期と場合によって日本人・中国人・台湾人とコロコロ変わった。かつて大日本帝国軍人だったときは、東京に飛来する米軍のB29を高射砲で迎撃し、中華民国総統だったときは北京政府から自国の近海に軍事ミサイルを撃ち込まれながらもひるまなかった。

 若いころには禅に凝った。中年になってからはプロテスタント長老派教会の敬虔な信者になり、それなのに老年期には戦死した兄の魂が眠る靖国神社に参拝している。なお、8月14日の葬儀はキリスト教式でおこなわれた。

 ……とまあ、李登輝はとにかく複雑な人物だ。有り余る知力と体力と精神力、1世紀近い人生の時間、そして生まれ育った台湾という土地の複雑な近現代史が、ここまで引き出しの多い人間を作ったのだろう。

 台湾が「民主化され台湾化された中華民国」という奇妙な個性を持ち、国際社会の大部分から未承認なのに世界から愛される不思議な国家に変わったことも、現役時代の李登輝の個性の影響は決して小さくない。

李登輝元総統死去を大きく報じる7月31日付の台湾・地元主要紙 ©時事通信社

「親日家」李登輝はただの一側面にすぎない

 いっぽう、李登輝は総統在任中の1993年に作家の司馬遼太郎を台湾に迎えたあたりから、日本との絆を表立って深め、2000年の総統退任後は本格的に日本の保守派と接近する。晩年の20年間、日本での李登輝はこうした顔のほうがよく知られるようになった。