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<李登輝と接触した経験を持つ政界、学界の人間の多くは、この総統が簡単な言葉で表現できない人物であることを認める。甚だしきに至っては、李登輝と仕事を一緒にしたことのある部下や同僚の何人かは、李登輝の体内には多くの異なる人間の特徴が混ざり合っており、さまざまな角度から観察して、初めて彼の人格や行動様式、政治原則を理解できると指摘する。また、ある人物は、彼のことを宗教家、大学教授、思想家、謀略家の特徴を備えた集合体であると表現する>

<李登輝には自分の実力を実際より低いとライバルに思い込ませる特徴があり、競争でも常に奇襲戦法で勝利を収めてきた。彼が蒋経国から副総統に指名されたのを同僚たちは意外に受け止めたが、ある高官によれば、これこそ李登輝が「大智は愚なるが如し」という哲理を極限まで発揮した表れだった>

<単純なようにみえて複雑で、理解しやすいようにみえて奥が深いというのが、李登輝を日頃から理解している人物の事実に即した李登輝評だ>
(周玉蔲著 本田伸一訳『李登輝の一千日』連合出版 1994年)

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 もちろん、李登輝には「親日家」の一面“も”あった。晩年の彼は日本語を話すときに政治的な失言が多かったが、これは李登輝の日本語が「22歳まで」の青春の言語であり、学生気分で喋るなかでつい無防備になるためだろう。

 1993年に司馬遼太郎の取材を受けたときは、旧制高校式の学生言葉で「(山地の原住民の村を)ボクが案内する」と口走り、司馬から「あなたは大統領なんだから」とたしなめられたこともある。頭を日本モードに切り替えたときの李登輝は、そんな無邪気さがかえって日本人に親しまれた。

 ただし、「旧制高校生・李登輝」は彼の素顔にいちばん近いのかもしれないが、やはり李登輝の多様な顔のひとつでしかない。歴史の教科書に名前を残す人というのは、得てして簡単に理解できるような存在ではないのだ。

私は“怪しい老人”李登輝が大好きである

 なお、私はなんだかんだと言いながら、李登輝が大好きである。

 訃報を聞いた日は落ち着かず、夜遅くまで台湾のテレビ放送に見入ってしまい、それでもいても立ってもいられなかったので、数日後に白金台の台北駐日経済文化代表処(事実上の台湾大使館)に追悼の記帳に行ってしまった。追悼メッセージのポストイットも、名前を伏せてこっそりと書いている。

 ただ、私が好きなのは、わが国でステレオタイプな親日家として受容されていた最晩年の彼ではなかった。東アジアの近現代史のカオスを煮詰めたような、いくら調べても容易に尻尾がつかめないのに本人をまったく憎めない、天衣無縫な怪しい老人。そんな李登輝が大好きだったのである。

 ──李登輝さん、本当にお疲れさまでした。ゆっくりお休みください。