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 たとえば金権政治だ。往年の李登輝は改革を拒む国民党内の不満分子を押さえるために、カネの威力を容赦なく活用した。また、国際的に孤立した台湾の地位を保つために、日本やアメリカを含む各国に多額の機密費をバラまいたが、その過程で不透明なカネの流れが生まれた。さらに民主化された台湾社会で国民党を選挙に勝たせるために、地方のヤクザや金権勢力(黒金)の集票機能にも頼った──。

 こう書くとひどい話だ。ただ、「22歳まで日本人」だった戦中派世代の李登輝は、彼と同世代の日本の政治家たちと同様、目的のために田中角栄的な政治手法を辞さなかったという弁護はできる。ただし台湾政界の場合は、金権の規模が日本よりも1~2桁大きかった(なお、李登輝は馬英九政権下の2011年に汚職罪などで起訴されているが、「金庫番」の劉泰英が実刑を受けたものの李本人は無罪とされた)。

 また、李登輝は政権終盤に狭義の台湾人アイデンティティを過度に強調してしまった。これは結果的に、マジョリティである閩南系の本省人と、外省人などそれ以外の族群との対立関係を深め、社会の分断を拡大させた。ここで流布された「外省人悪玉論」のような見方は、李登輝人気に伴って日本にも輸出され、日本人の台湾観にもすくなからず影響を与えている。

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1996年の選挙で得票率54%を集めて総統に当選した ©getty

政治家としての引き際もよくなかった

 政治家としての引き際もよくなかった。李登輝は「父と子」とまで呼ばれた有能な若手外省人・宋楚瑜と二人三脚で権力掌握と政治改革を進めてきたが、後継者選定が視野に入った時期に宋楚瑜に冷や飯を食わせ、結果的に党内から追い出している。

 結果、2000年の総統選に立候補した宋楚瑜は同情票も集めて国民党票を大きく食ってしまい、李登輝が支持した連戦は敗北。漁夫の利を得た民進党の陳水扁が得票率39.3%でギリギリ勝利したことで、中華圏の歴史上初の民主的な政権交代が実現された。ただ、国民党の分裂は大きな政治混乱を招いたうえ、タナボタ勝利で低支持率スタートを切った陳政権も迷走が目立った

 当時、李登輝本人は連戦を一応の総統に据えて本人はより権限が強い国民党主席の地位に留まり、院政を敷く(本人の表現では「台湾の民主化を完遂する」)計画だったらしい。だが、国民党下野の責任を問われて党主席を追われ、ほどなく党籍を抹消された。その後、自身が元党主席であるにもかかわらず国民党を強く批判するようになる。

 近年の日本人の間では、「国民党=悪者」という認識がかなり広く定着しているので、李登輝の“変節”はあまり気にならないのだが、台湾ではそうとは限らない。国民党は日本の自民党と同じく、問題は多々あれど(当時は)政権担当能力を持つ老舗の保守政党だった。党を引っ掻き回した李登輝を複雑な目で見ていた人は、守旧派の党員に限らずそれなりに存在した。

ライバルを次々と蹴落とす“権力闘争術”

 また、これは欠点ではなくむしろ長所だが、日本の「哲人政治家」のイメージとは異なる点として、現役時代の李登輝が非常に権謀術数に長けていた点も指摘しなくてはならない。