李登輝は48歳で国民党に入党してから、かつて特務の黒幕でもあった独裁者・蒋経国の「吹台青」政策(台湾人幹部育成方針)のなかで目をかけられ、中国国民党内部の権力闘争術やネゴシエート術を叩き込まれた。なお、国民党は党史のうえでは中国共産党の兄貴分にあたり、実は独裁時代の党のありかたは中国共産党と瓜二つだ。
1988年に蒋経国が後継者を明言しないまま急死した後、李登輝は副総統の地位からそのまま代理総統にスライドしたが、当初は実権がない単なる「中継ぎ投手」だとみられた。だが、その後の権力掌握の過程は芸術的な見事さである。
まず、外省人の有力者である党秘書長(幹事長)・李煥と組んで老政治家の俞国華を追い落とし、その後に李煥を更迭。さらに軍の大物の外省人守旧派・郝柏村を故意に行政院長(首相)に引き上げて文民にすることで軍権を奪い、その後に野党の民進党とこっそり連絡を取り合って郝柏村を攻撃させ、結局は辞任に追い込んだ。さらにライバルであった本省人政治家の林洋港や外省人の有力若手議員・趙少康を暴発させ、国民党から離党させた(なお、李登輝は最終段階になって、上記の過程で懐刀として働いた宋楚瑜を切り捨てたのだが、これが国民党の下野を招く遠因になったことはすでに書いた通りである)。
また、1995〜96年の台湾海峡危機では中国から軍事ミサイルを向けられながらも、李登輝は北京側の上層部と複数のパイプを通じて情報を取り続け、中国側に本気で台湾侵攻の意思がないことを早期の段階で見抜いていた(しかも一部の情報源は、若い頃の共産党員時代の革命仲間が関係していたとみられる)。
最後の宋楚瑜の件でミソを付けたものの、上記はいずれも「乱世に育った中国人」だけが可能な、最高レベルの宮廷政治と外交である。こうした腹芸は後任者の陳水扁や蔡英文はもちろん、中国共産党でも胡錦濤や李克強のような文官タイプの政治家では充分にはおこなえないだろう。
全盛期の李登輝は、蒋経国から中国人的な謀略術を吸収し、それを最大限に応用していた。しかも李登輝は、国民党・共産党双方の最も暗く怪しげな面を、内部の人間の肌感覚としてよく理解していたのである。
「李登輝は常に奇襲戦法で勝利を収めてきた」
李登輝が政治家として最も冴えていた1993年(日本語訳刊行は翌年)、彼と近い立場のジャーナリストが記してベストセラーになった『李登輝の一千日』は、李登輝の人物像をこう描いている。