歴史家の君塚直隆氏が、大英帝国を築いた7人のアウトサイダーたちに光をあてた『悪党たちの大英帝国』(新潮新書)。同書より、第2次世界大戦でナチスと戦った英雄でありながら、自身は生粋の帝国主義者で、アジアやアフリカの人々に対する差別意識を根強く持っていたウィンストン・チャーチルについて抜粋して紹介する。
(全2回の2回目。#1を読む)
最後の帝国宰相?
政権がイーデンに引き継がれたところで、内閣の信任を問うために議会は解散され、総選挙が行われた(1955年5月)。チャーチルはここでも当選を飾り、さらに59年10月の総選挙にも出馬する。生涯で16回目の当選を果たしたチャーチル翁であったが、これが最後の出馬となった。1964年7月27日、89歳のチャーチルは最後の登院を終えてここに政界を去ることとなる。議員生活は63年358日に及んだ。それは「最高の議会人(バルフォアの評)」と呼ばれたグラッドストンの62年206日をも上回る記録となった。庶民院議員のみの在籍日数でみれば、歴代首相のなかでいまだに破られていない最長記録である。
チャーチルの議員生活を支え続けた妻のクレミーとは生涯仲睦まじく幸せに暮らすことができた。彼はロイド=ジョージのように愛人は作らなかった。しかし子育てはうまくいかなかった。偉大なる父にあやかり「ランドルフ」と名付けられた長男は酒に溺れ、父ウィンストンの名前を利用するだけの出来損ないだった。離婚歴を有していた長女ダイアナは再婚したのち、父が亡くなる数ヶ月前に自殺を遂げていた。次女サラは女優となったがあまり売れず、最後はアル中になってしまった。
「アルコール癖」については父ウィンストンに責任があるのかもしれない。彼は第2次大戦を率いていたときも、昼食からいきなりお気に入りのポル・ロジェ(シャンパン)を開けて、ワイン、ブランデーと続き、午後にウィスキー・ソーダで「お口直し」してから、夕食でもまたかなりのアルコールをあおっていた。いわゆる「アルコール依存症」だった。