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前代未聞、葬儀には女王陛下の姿まで

 それでも子どもたちとは違って長生きしたチャーチルは、1965年1月24日の午前8時を少し回ったあたりにロンドンの自宅で息を引き取った。享年90。議会の決定で葬儀は「国葬」となった。世界中から弔問客が押し寄せた。ヨーロッパの西側からはすべての国の元首が一堂に会した。時としてチャーチルと「けんか」をしながらもフランスの解放に尽力した「戦友」シャルル・ド・ゴール大統領(1890~1970)の姿もあった。もう一人の「戦友」アイクこと、アイゼンハワー元大統領も駆けつけてきた。そしてウェストミンスター・ホールでの正装安置には30万人以上の人々がこの「世紀の英雄」に最後の別れを告げるために訪れたという。

 そしてセント・ポール大聖堂で営まれた葬儀には、なんと女王陛下の姿まで見られた。君主が臣下の葬儀に出るというのもまた長いイギリスの歴史のなかでは前代未聞のことだった。弔いの鐘がイギリス中に鳴り響いた。

チャーチルとエリザベス女王

「悪党」チャーチルのリーダーシップ

 チャーチルもまた評価が難しい「悪党」である。若くして商務相や内相に就き、その後の「社会福祉国家」イギリスの源流を築き上げた功績は高いが、その多くは「兄貴分」のロイド=ジョージからの薫陶によるものだった。海相としての「ガリポリの悲劇」がその後の彼につきまとう影となったのはいうまでもなく、海相辞任後も6つの閣僚ポストに就いたもののこれといった功績が見当たらない。それどころか、彼自身ものちに回顧しているように、財務相時代に金本位制に戻したのは時期尚早の大失敗だった。 

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 パーマストンが70歳で亡くなっていたら彼は二流で終わっていたかもしれないという『タイムズ』の評を紹介したが、チャーチルの場合にも65歳で首相に就いていなかったなら、彼の評価は、いくつもの失敗を犯した無鉄砲な政治家として歴史の片隅に追いやられていたことだろう。チャーチルの第2次世界大戦におけるリーダーシップは、それまでの大失敗をすべて覆い隠してしまうほどに重要なものだった。

悪党たちの大英帝国』(新潮新書)