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 校則の裁判で裁判所は、校則を定める合理的理由として「校風」といったものも挙げていることが多い。しかし、校風を理由とした校則は、少なくとも公立小中学校では合理性を持たない。なぜなら、小中学校は原則として住んでいる場所で半強制的に決まってしまうので、子どもに自分の好きな校風の学校を選択する権利がないからだ。

法的問題以上の深刻さを抱える校則問題

 一方、義務教育ではなく、形式的には子どもに学校選択権がある高校はどうだろうか。私立高校の校則が争われた裁判でも、裁判所は一定の校風に基づいて他校よりも厳しい校則を設定することは否定していない。もし、その校則が嫌ならば、最初からその高校を選ばなければよかったからだ。

 しかし、実はこのことは日本の校則問題が、法的問題以上の深刻さを抱えていることを意味する。日本では、一般的に「学力が高く、経済的に豊かな家庭層が通う進学校ほど校則が緩く自由な校風であり、学力が低く、経済的に貧しい家庭層が多く存在する荒れた学校ほど校則が厳しく管理統制が強い校風」だからである。つまり、経済的に豊かな階層は子どもに学力を与えやすく、さらに言えば、自由で伸び伸びとした校風の学校生活も経験させやすい。その一方で、貧しい家庭に生まれた子どもは、学力を身に付けて自由な校風の進学校に入らなければ、校則の緩い自由な校風を享受できないのだ。

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 もちろん、自由な校風の進学校で育ったエリート層は、荒れた学校でも校則の緩い自由な校風にすればいいと単純に思うだろうし、実際に弁護士の大半はそのような主張である。しかし、現実はそう甘くない。荒れた学校で、家庭環境もままならない生徒たちに対して、一定の学力と生きていく上で最低限の社会常識を身に付けさせるためには、厳しい校則で管理統制する必要性は否定できないからである。進学校の校則が緩いのは、それだけ生徒のことを信頼し、自己責任に委ねているからであり、そのために高い水準の学力を要求している。つまり日本の校則問題の根底には、「受験戦争で勝つことで自由と信頼を得る」というシステムが存在しているのだ。

 したがって、小中学校の校則は合理性を判断し、合理性のない校則は守らなくてもよいと判断するのはたやすいのだが、高校はなかなかそう単純ではないのである。