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尼子はどんな人物だったのか……

 新聞記者は、取材した成果を記事にすることが喜びの一つだ。それがささやかでもスクープなら尚更だ。しかし、元号取材は新元号公表の日まで、記事になることはない。他社の取材がどこまで進んでいるかもわからない。いつ来るか知れない改元に備えて、一人で抱え込むしかなかった。「次の元号は何になるのか。他社はもっと取材が進んでいるのでは。他社に抜かれはしないか」。一人苦悩しながら、いつかは会えるはずだと探していた尼子の存在は、私の心の中でいつのまにか「戦友」のように思えていた。

 その後、私は取材班の同僚と、中国地方に住む尼子の弟宅を何度か訪れることになる。しかし、会うことは出来なかった。手紙のやりとりには応じてもらえたが、「兄の仕事や私生活はわからない」と説明された。遺品を処理した内閣官房職員によると、アパートの部屋には大量の本が山積みになっており、彼は「尼子さんは『本の虫』だったみたいですね」と語った。

「それが尼子さんの存在証明です」と語る盟友

 中国地方への出張から帰った私は2018年11月下旬、尼子から元号の考案依頼を受けていた元二松学舎大学長・石川忠久に、ある会合の席で伝えた。

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「宇野精一先生や尼子さんの話を今度伺いたいのですが」

「尼子さんか」

「尼子さんが亡くなったのはご存じですか」

「えー、亡くなったのー」

 石川は絶句し、後日改めて話を聞く約束をした。

©iStock.com

 12月4日に、石川が理事長を務める漢籍研究団体「斯文会」の理事長室を訪ねた。石川と向き合って、革製のソファに座るよう案内された。

「次の元号の話でこの部屋に何度も来た。そこに座ったからね」

 私が座るソファを指さし、尼子との思い出を語ってくれた。

「彼は二松学舎出身だから親近感を持っていた。最後に来たのはいつかな。去年会っていると思う。物静かな男でね」

「尼子さんと先生の付き合いはいつからでしたか」

「定かではないが、かなり前から来ていた」

「尼子さんが来た時は、どんな話をしたのですか」

「話って、元号の話をしたけどね。漢文の古典を題材に、尼子さんが私に質問することが多かった。歳が(20歳前後も)離れているので、しゃっちょこばって(緊張して)いたけど」

「先生が元号を頼まれたのは、宇野精一さんの後任という位置付けだったのですか」

「そこは向こうが決めることだから、わからない。だけど、ここ(斯文会)は宇野(精一)先生の後を頼まれてやっている」

 石川が提出した元号案に話題を振ろうとすると、「核心に触れてきたな。ははは」と笑い飛ばしながら、宇野精一との思い出も含めて1時間以上応じてくれた。