3歳の息子のオムツを替える。ご飯もあげる。風呂にも入れる。保育園の送り迎えもする。様子がおかしかったら、すぐさま病院に連れて行く。土日に俺ひとりだけが寝ているなんてことはせず、夫婦で息子とゆっくり過ごす。
毎日、掃除やら洗濯やら家事もしている。料理だけは出来ないが、やろうとしていないだけなのは自分でもわかっているので、「ぎょうざの満洲」の冷凍餃子を焼いたり、「崎陽軒」の真空パックシウマイをレンチンする程度だがボチボチやりだしてはいる。
同じ稼業の妻がやることに、口を出さない。取材に出た彼女の帰りがどんなに遅くなっても文句なんて言わないし、子どもの相手もするし、家のこともやっておく。ここ最近は確実に妻のほうが売れていて稼ぎも多いがまったく気にならないし、そんな彼女を誇りに思うし、忙しそうなときは手伝うこともある。
いまはどこの家の夫もこんなものだろう。しかし、仕事以外は何もしない父への不満を俺に吐いていた専業主婦の母を見て育った73年生まれの男のわりには、「俺って理解のある進歩的な夫では?」みたいな自負もあった。また、夫婦ともにフリーランスなので、忙しくとも協力すれば家を回すことができる環境で良かったとも思っていた。
ゆえに『82年生まれ、キム・ジヨン』は俺にとって対岸の小説になるはずだったが、なぜか気になってしかたなかった。あのマグリットの絵みたいな表紙も頭にこびりつき、どうにもならなくなって電子書籍版を購入したが、子供の面倒と仕事をこなすなかで数日かけて本を読むのはなかなか億劫なのでそのままにしていた。
だからこそ2時間弱で観られる映画の存在は有り難く、シネコンに足を運ぶことにした。
「ぬるい中身になっているのでは」と身構えたが……
原作では主人公のキム・ジヨンが救われないまま終わるのに、映画では救われてしまっているではないか。なんだか、“私の物語”ではなくなっているではないか。
公開から早々に小説読者の一部からは、そんな原作と映画の大きな違いを指摘する声が上がっている。キャッチコピーの「共感と絶望から希望が生まれた」「大丈夫、あなたは一人じゃない。」に対しても、「そういうノリにしちゃダメじゃないの?」と、違和感バリバリの空気が漂ってもいる。
じゃあ、映画はぬるい中身になってしまった改悪版なのかと身構えていたわけだが、73年生まれの男として夫として観るぶんには、キャッチコピーに間違いはないような気がした。むしろ「“気づき”と共感と絶望から希望が生まれた」と良い意味でキャッチコピーを改変したいくらいだった。