保険金詐取を目的とした殺人事件はいまもよくある犯罪だ。一時は頻発し、保険会社が保険金の受取人の資格条件を厳しくしたこともあった。しかし、いまから85年前に東京で起きた保険金殺人事件は世間をあっと驚かせた。

 実父の病院長が、放蕩息子の医大生にいまなら約1億円以上に当たる生命保険を掛け、実母が出刃包丁で殺害。妹も手を貸したという、すさまじい事件。当時の警視庁刑事部長は「常識では考えられぬ前代未聞の犯罪」と語ったが、肉親同士のこれほどの事件はいまでもなかなかないだろう。

 社会に投げ掛けたのは「家族」「母性」という問題。発生した年は永田鉄山・陸軍省軍務局長が暗殺され、裁判が続く間に二・二六事件、日中全面戦争が起きる。事件の報道にはそうした戦争の時代が濃い影を落としている(今回も差別語が登場。当時の表記に従った部分がある)。

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事件は「暗闇の死闘」からはじまった

 発端は「強盗殺人事件」として報じられた。最も派手な東京朝日(東朝)の1935年11月4日付(3日発行)の記事を見てみよう。見出しは「暗闇で強盗と死闘 日大生刺殺さる 賊は凶器を捨てゝ(て)逃走す 祭日の暁・本郷の惨事」。

始まりは「強盗殺人事件」だった(東京朝日)

(1935年11月)3日午前2時すぎ、本郷区(現文京区)弓町1ノ25、日本大学歯科3年生、徳田貢君(24)方台所の錠を外して黒布覆面の強盗が侵入。階下8畳間に入り、物音に首を上げた母はまさん(46)に「金を出せ」と声をかけた。賊は凶器を突き出している。同室には戸主の妹・栄子(21)、秀子(17)、弟・兀=たかし=(11)の3人が枕を並べていることとて、騒ぎを恐れたはまさんは、布団の下のがま口から60円くらいをつかみ出して賊に差し出し、賊は無言でこれを受け取って立ち去ろうとしたが、この時まだ寝ついていなかった2階の貢君が階下の気配を怪しんでドカドカと走り下り、階段下の廊下で賊と出くわしてしまった。暗がりで両者にらみ合ったが、中学時代から庭球選手として活躍。最近はボクシングをやって腕に自信のある貢君はとっさに真正面から賊に組みついた。途端に賊のため腹部をしたたか突き刺されたが、ひるまず賊をねじ伏せんとし、賊は右手の出刃包丁をもって貢君をめった突きにして抵抗。ついに貢君の左頸部に致命的な深手を与え、貢君を振り放して侵入口に走り、ここに出刃包丁を捨てて逃走した。あおむけに倒れた貢君はそのまま絶命。ものすごい死闘にただ声をのんですくんでいた母子は、からくも起き上がって本富士署に訴え出で、付近一帯の捜索となったが、非常手配も効なく犯人は逃げうせてしまった。しかし、犯人も確かに血にまみれ、疲れ切っているものとみて、警視庁から中村捜査係長が出動。付近の空家、縁の下などまで探しているが、犯人は和服、脅迫した声音は若々しく、24、5歳と推定されている。

 いまなら「狂言」の可能性も考えて「届け出」原稿にするだろうが、当時はそうした配慮をしなかったのだろう。