手のつけられない自堕落息子だった貢
一方、貢は中学在学当時から学業を嫌い、酒とタバコをたしなむだけでなく、素行がかんばしくなかった。
大学入学後1年間は学則で寄宿舎で暮らしたが、以後は父の意思に反して下宿生活。遊興にふけった。一時は栄子、秀子と共同して自炊生活を送ったが、深夜に帰宅したり外泊したりするだけでなく、家計を担当する栄子から多額の金を引き出し、栄子、秀子の時計まで質に入れて遊興費に。栄子が拒むと殴るなど、妹2人に迷惑をかけることがたびたびで、結局別居。本郷付近の下宿で放縦な暮らしを続けた。
1933年4月には3年に進級したが、既に不良学生に堕落して日夜遊蕩にふけり、登校せず、保証人の日大教授は貢に厳重注意するよう父寛に言ってきた。寛とはまは驚き、協議のすえ、1933年7月、はまが単身上京。
下宿先を訪れたところ、多額の学費を送金しているのに下宿代は滞納し、本箱、寝具、衣類などはもちろん、書籍さえ1冊もないばかりか、花柳病(性病)にかかっているありさま。はまが諭すと、貢も謝罪し、改悛を誓ったので、はまも安堵。貢は再び栄子、秀子と同居したが、間もなく、また遊興にふけり、妹たちの衣類などを持ち出すようになった。
ついに教授から「保証人をやめたい」「進級の見込みはない」と言ってきたため、いったん病気を理由に休学させた。しかし素行はおさまらず、栄子からはまにまた上京して監督してほしいと連絡があった。
寛とはまは、貢の従来の行状から見て、もはや到底改悛の見込みはないと思ったが、一縷の望みをかけて再度はまが上京することに。しかし、放火を考えるまでになっていた寛は、はまが監督しても貢の放埓がやまず、万策尽きた場合は、一家将来の憂いを断つため、貢を殺害するのもやむを得ないとし、あらかじめ多額の生命保険をかけ、その保険金を得ることを考えた。
出発前の1934年6月、はまに話すと「やむを得ない」という答え。はまは兀を伴って上京。本郷の一軒家で貢、栄子、秀子と5人暮らしを始めた。一方で寛は計画通り、貢に総額6万6000円の生命保険をかけて準備した。
貢の放埓はやまず、大学の学則があるため、いったん退学させた後、1935年4月、復学させた。はまが監督してもどうしようもないことから同年5月中旬ごろ、寛が上京。貢の状況を見て、もはやこのうえ、貢を諭しても無益で、到底立ち直る見込みはないと考え、いよいよ保険金殺人を実行する決意をした。はまも賛成。殺害方法として梅毒治療薬にモルヒネを混入して注射することを計画。はまは寛が実行し、万一発覚した場合は一家全滅になると力説。「自分が引き受ける」と言って寛の同意を得た。