〈序盤のうち“ふるえ”多し、未熟さを痛感〉
A級初参加で挑戦権を得た史上初の棋士は山田道美九段である。1964~65年の第19期A級順位戦にて7勝2敗の好成績を挙げ、大山名人への挑戦権を獲得した。A級初参加から挑戦権を得るまでの山田の「対局メモ」を一部紹介したい。
39年6月29日
三枚ヤグラの千日手になる。序盤のうち“ふるえ”多し、未熟さを痛感、先が少々思いやられる。
7月2日
四日におよぶ長期戦もようやくけりがついた。加藤一氏に中盤ギモン手が一手あり、勝つことができた。あと四勝して早く安全けんに入りたいものだ。
7月15日
一昨日、対加藤博戦に敗れてまた悔いが残る。“負けてくやしいハナ一モンメ”といった気持ち。1勝1敗、前途けわし、夏の代打、充実した研究をしよう。健康も充実させよう。
9月9日
昨日の対丸田戦に勝って2勝1敗、なんとか一息つけた、まだまだ不安定である。
11月3日
昨日の対五十嵐戦に勝って、一息つく、だが、まだ安心できない、残る四局、特に対大野戦に全力をあげて戦おう。
12月7日
現在の状況
挑戦候補 升田5勝。加藤博5勝1敗。松田4勝1敗。
降級候補 大野5敗。五十嵐1勝4敗。加藤一1勝4敗。
中間 塚田3勝2敗。山田3勝2敗。丸田2勝3敗。二上2勝4敗。
12月14日の状況 山田(4勝2敗) 大野(6敗) これでなんとか今期は残留できそうだ。来期はもっと余裕をもって戦えるようにしたい。王将戦もシード決定(二上戦に勝って)まずは気楽な正月になりそうである。
1月17日
のんびりした日曜日。14日の対二上戦に勝って5勝2敗と安全ケンに入る。
1月27日の状況 升田(6勝1敗) 松田(5勝2敗) 加藤博(5勝2敗) (山田5勝2敗)
2月9日
明日の対塚田戦の策戦につかれ迷う。これが自分の将棋の弱さであり狭さである。“筋違い角”か、“タテ歩取り”か、あるいはまた“横歩取り”で戦うか、いずれにしても狭い狭い。
2月10日午後11時50分
いま帰ったところ。塚田九段の策戦は「タテ歩取り」であった、相手の拙策で比較的楽に勝つ、幸運であったと思う。現在の状況、升田6勝1敗、山田6勝2敗、加藤博5勝2敗
2月25日
昨日、升田九段が敗れて升田、加藤博、山田ともに6勝2敗となる。3月中旬の対升田戦が面白くなった。
3月11日
いよいよ対升田戦が5日後に迫った。毎日、研究しているのだが、あまり進まない、昨日、母から手紙来て、16日のことにふれてあった、運は天にまかせて、自分の力一杯の努力をしてみよう。
3月13日
午前9時半、晴天、陽気はあたたかくなった、対升田戦の研究、思うように進まず。
3月29日
午前2時半、意外に、まったく意外に挑戦者になってしまった。弱ったと思う。この上は捨て身になって名人に対するのみである。“身を捨ててこそ浮かぶ瀬あり”
(以上、「将棋精華」より抜粋。文中の年は昭和)
上記のメモに、A級で戦う棋士の本音が吐露されている。第19期A級順位戦の状況を説明すると、頂点には大山康晴名人(42歳。年齢及び段位は当時、以下同)が君臨しており、A級の順位1位に二上達也八段(33)、以下升田幸三九段(47)、加藤一二三八段(25)、丸田祐三八段(46)、塚田正夫九段(50)、大野源一八段(53)、加藤博二八段(41)、五十嵐豊一八段(40)と続き、前期にB級1組から昇級してきた松田茂役八段(43)と山田八段(31)の10名で戦っていた。
リーグでは加藤博と山田が7勝2敗で同星となり、挑戦者決定戦(当時は三番勝負)の結果、山田が初の挑戦権を得た。