昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

特集観る将棋、読む将棋

“百折不撓の棋士”木村一基、46歳の初タイトル獲得で流れた涙、涙、涙

『受け師の道 百折不撓の棋士・木村一基』より #2

2020/11/01

「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれる棋士がいる。木村一基九段、47歳。

 タイトルにあと一歩のところで手が届かなかった木村が、7回目となるタイトル挑戦を決めたのは2019年夏のこと。相手は名人位も保持していた最強棋士・豊島将之王位(当時)だった。木村は、フルセットにもつれこんだ王位戦七番勝負を制して悲願の初タイトルを獲得。46歳3か月での栄冠となり、初タイトル獲得の最年長記録を大幅に更新することになった。

王位を獲得して、インタビューを受ける木村一基 ©文藝春秋

 ファンからも棋士からも愛される木村の歩みを証言とともに丹念に描いた『受け師の道 百折不撓の棋士・木村一基』(東京新聞)は、涙なしには読めない名著として評判が高い。王位戦最終局を描いた章から、一部を抜粋して紹介する。

◆ ◆ ◆

最終局 東京の夜

 大事な最終局の前日、木村は財布を落とした。いつも指圧を受ける接骨院を訪ねる途中、気づけばポケットから消えていた。大いに慌てたが、間もなく無事に交番へ届けられた。「ツイてるんだか、ツイてないんだか」と、対局前夜の食事会で関係者を笑わせた。いつも通りの木村の姿があった。

 第6局からの2週間を、木村は普段と同じように過ごした。「いろんな方に『次が大事』と言われましたが、力を入れてもしょうがないという気持ちでした。そういうところは40代になって変わった部分かもしれない」。後輩の戸辺誠と研究会を開き、先輩の加瀬純一の教室へ指導に行った。いずれも終わった後の酒盛りまで「定跡」通りだった。

 木村にとって、「あと1勝でタイトル」という勝負はこれが9度目となる。いずれも敗れてきたが、これまではすべて木村が先に王手をかけ、追いつかれる形だった。逆に追いついて最終局を迎えるのは初めてだった。

 最終第7局は9月25、26日、東京都千代田区の「都市センターホテル」で指された。名の通り都心の中央、皇居の西側に位置し、豊島にとっては前年に初タイトルの棋聖、続いて王位を獲得した験のいい対局場である。

最終局の振り駒の結果を、木村は「見ないようにした」という(東京都千代田区の「都市センターホテル」で/写真提供:東京新聞)

 初日朝、改めて先後を決める振り駒が行われ、豊島の先手に決まった。得意の戦型に誘導できる分、将棋は先手番がやや有利とされる。実は木村は王位戦で7回振り駒をして、一度も先手を取ったことがない。全国の木村ファンのため息が、対局室まで聞こえてきた気がした。ただ、「先手がほしかった」という豊島に対し、木村は「どちらでもなるようになる」と達観していた。当然、豊島は十八番の角換わりを選ぶ。この夏、木村がまだ破ることのできていない戦法だった。