生徒の一人、佐藤高大(さとうたかひろ・41)は学生時代から木村に教わっている。指導後にみんなで一杯やった後、途中まで電車が一緒になる。「ホームでの別れ際、木村先生は電車が行ってしまうまでわれわれに頭を下げ続けるんです。三段の時代からずっと変わらない」。そんな木村が09年、3連勝4連敗で王位戦に敗退した直後は「声も掛けられないほど落ち込んでいた」。その姿が心に残っていた。
6度目の挑戦に失敗した16年には、加瀬も「もうダメか」と内心あきらめていた。それでもあきらめなかった男が、いま最強の棋士を相手に全力で将棋を指している。桂跳ねの決め手を見て、形勢を控えめに解説していた加瀬も、ようやく木村の勝ちを断言した。
「本当に取っちゃったよ」。涙を流して喜ぶ一同を見て、加瀬は木村の心中を思った。「こんなに応援されたら、頑張るしかなかったよな」。生徒の前で泣くのは気恥ずかしく、加瀬はトイレで涙をぬぐった。
そのころ、木村も大勢の記者に囲まれ、涙をこらえていた。いつごろからか。大きな一番を戦った後、世話になった人や応援してくれる人の顔が頭に浮かぶようになった。そうすると涙が止まらなくなるのだ。
終局後、大盤解説会に向かった時は、ファンの顔を見ないようにして乗り切った。対局場に戻っての感想戦の間も、向かいに座る豊島に悪いと、何とかこらえた。しかしインタビューでファンへの思い、続いて家族への思いを聞かれると、もうダメだった。抑えていた思いがあふれた。
「頑張れよと言って下さるのを感じていました。力になったかと言われれば、なったと思います。ありがたく感じています」
質問する記者たちも、感無量という表情だった。将棋担当で、木村の歩んできた道のりを知らぬ者はいない。かくいう筆者も、こみ上げる思いを抑えきれずにいた。木村がこの日とは正反対の涙を流した、3年前の夜を思い浮かべていた。あの絶望の淵から、撓(くじ)けずに立ち上がった男の横顔を見つめていた。
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この続きは、『受け師の道 百折不撓の棋士・木村一基』(東京新聞)に収録されています。