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 夜行列車で上野駅に着いた行方は、山手線の人の多さに酔い、神田駅で吐いてしまった。2日間の試験は受験者同士で計8局を指す。初戦の相手は、高い声でよくしゃべる同学年の子で、名前は木村といった。話し方に独特の調子があって「田舎にはいない子だな」と感じた。相手の振り飛車に急戦で挑んだが、やられてしまった。

 研修会には、よほどのことがなければ受かると聞いている。でも、奨励会には入れるのか。地元では敵なしでも、こんなに強い子のたくさんいる東京で、本当にプロになれるのか。不安でいっぱいの行方少年は、その日の対戦相手が人生のライバルになるとは、想像もしていなかった。

奨励会

 奨励会では、プロ棋士を夢みて全国から集まった天才たちの前に、二つの鉄の掟が立ちふさがる。まず26歳までに四段(プロ)になれなければ退会、という「年齢制限」。もう一つは、半年間で成績上位2人が四段に昇段する「三段リーグ」である。初段からプロになれる囲碁界と比べ、将棋界の棋士の総数が3分の1程度と少ないのは、この厳格な「産児制限」による。女性の通過者を一人も出していない点も大きな違いだ。木村は小学5年で奨励会試験を受けたが、受験者数が多く、成績は悪くなかったものの「まだ若い」との理由で落とされた。6級で入会したのは翌85年の12月。天才とうたわれた羽生善治(はぶよしはる・九段)は入れ替わるように同月、15歳で奨励会を抜けてプロ入りしている。

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今年の王位戦では、藤井聡太棋聖(当時)の挑戦を受けた(提供:日本将棋連盟)

 木村の同期には、札幌で対局した屋敷、野月、金沢の名も含まれていた。同期15人のうち、プロになれたのは木村を含めたその4人のみ。研修会でともに学んだ行方は1次試験で落ち、失意から研修会も退会した。

「ひたすら指すことが当時の勉強法でした」と木村は語る。中学校から帰ると強豪の集まる千葉市の道場に通い、土日も一日中そこで指す。「詰め将棋は退屈で、あまり好きではなかった。今みたいにネットもソフトもないので、何をやったら強くなれるのか分からないんです」。当初はそれでも強くなれた。中学3年で二段と、順調なペースで昇進を重ねたが、そこから歩みが鈍くなった。

 同期の間でも進度は分かれた。屋敷は入会から3年足らずで四段に駆け上がり、木村が高校2年の夏には初タイトル「棋聖」を獲得してしまった。屋敷は当時、18歳6カ月。この史上最年少記録はいまだに破られていない(※2020年7月、藤井聡太が「棋聖」獲得により記録更新)。金沢は木村とほぼ同じペースで昇段した。中学1年で単身上京した野月は、都会の誘惑に足を取られ伸び悩んでいた。

 当時、奨励会の対局は平日に行われており、木村は比較的自由な校風の私立高校に進んだ。同級生だったフリーアナウンサーの大澤幹朗(おおさわみきお・46)は「男ばかりで毎日のように集まり、テレビゲームやマージャンをしていました。青春18きっぷで北海道まで旅行もした。僕たちのせいでプロ入りが遅れた部分はあるかも」と苦笑いする。

 しかし、学生時代の友情は大きな財産となった。当時のメンバーは今も、盆と正月のたびに集まる。王位戦七番勝負と竜王戦の挑戦者決定三番勝負が重なった2019年8月、多忙を極めたさなかにも木村は参加している。「将棋のことを忘れられる、数少ない瞬間なのかもしれません」と、大澤は勝負師の心中を慮った。