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三段リーグ

 高校2年でプロ一歩手前の三段に昇段した木村だが、初参加の三段リーグは7勝11敗と負け越し。2期目も同じ成績で「このままではダメだ」と思い知らされる。二段以下の対局とは空気が違った。年齢制限のタイムリミットが迫る中、誰もが人生を懸けて将棋を指している。「特に序盤の突っ込んだ研究が足りていなかった。受けを中心に考えるようになったのはこのころです」

「受け師」と称される木村だが、「防御を固めるだけの将棋ではない」と野月は説明する。将棋は相手玉を討ち取れば勝ちだが「玉でなく、相手の攻め駒を攻める感覚」という。敵が振りかざす武器を狙い、たたき折ってしまう「攻める受け」が、木村将棋の神髄なのだ。

「リスクの高い指し方。ほかの棋士はまねできない、というか、したがらない」と野月は評する。多くの棋士が得意とする攻め将棋と違い、受け将棋は一つのミスが敗北に直結する。「何度も痛い目に遭いながら、徐々に身につけていったんだと思います」。その努力が実を結ぶのは、まだ少し先のことになる。

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©文藝春秋

 木村は別の悩みも抱えていた。今も昔も十代の奨励会員が直面する進学問題だった。当時、大学に進む奨励会員はごく一部。中卒の者も少なくなかった。プロになれる保証はないが、進学すると「保険をかけた」と陰口をたたかれた。

 木村の3歳上の兄弟子、丸山忠久が早稲田大に進学した時、師匠の佐瀬勇次は激怒し「お前は行かないだろうな」と木村に迫った。高校進学にも反対した師匠だった。しかし結局、木村も一芸推薦で亜細亜大に進学した。恐る恐る師匠に報告したが、拍子抜けするほど怒られなかった。「あきれていたのか、丸山さんほど期待していなかったのか」と木村は苦笑いする。「確かに将棋の面だけでみれば、マイナスだとは思いました。それでも自分ならプロになれるという甘い考えも、どこかにありました」

 一方、「大学に行くやつは犬だ」と言い放ち、木村をあぜんとさせたのは同い年の行方だった。行方は奨励会試験に落ちて研修会を辞めた後、故郷の弘前から不退転の決意で上京。「浪人」生活を経て、木村の1年遅れで奨励会に入った。慣れない独り暮らしに加え、理解のない教師から「田舎に帰れ」と叱責されるなど「暗黒の中学時代」に伸び悩んだが、「高校を3カ月で中退したら吹っ切れた」という。

 木村と同じ三段に追いついてくると、二人は毎月、1対1で実戦形式の研究会(VS)をするようになった。しかし木村が三段リーグで苦戦する一方、行方は勢いのまま三期で通過、19歳でプロ入りした。さらに初参加の竜王戦で挑戦者決定戦まで進むなど、棋界の新星として話題をさらった。二人のVSはその後も続けられたが、競争相手の躍進を目の当たりにし、木村の心中には焦燥が芽生えていた。