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青梅線の意外なルーツ

 あれ、奥多摩工業、どこかで聞いたことが……。そう、奥多摩駅のホームから見えたあの工場に掲げられていた会社名。つまりは、奥多摩むかし道沿いのこの廃線は、奥多摩工業が保有する“休止路線”なのだ。

 ならば、線路の根っこは奥多摩工業につながっているのだろう。そう思ってむかし道を引き返し、奥多摩駅前も通り過ぎて日原川沿いをさかのぼる。そこには巨大なアーチ橋が架かっていた。橋の先を目で追うと、山肌に沿って進んで例の工場へと入っていくではないか! なるほど、このようにして線路がつながって、駅の裏手の巨大工場ともつながっていたのである。

川をかかる橋からぐるっと見渡すと線路が… 筆者撮影

 今でこそ、奥多摩というとハイキング、レジャーの駅である。青梅線も「東京アドベンチャーライン」なる愛称のとおりに、東京都内では数少ないレジャー路線だ。だが、そもそもの青梅線のルーツはレジャーではなく“産業路線”である。

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 青梅にあった石灰石鉱山から石灰石を運び、立川からは現在の南武線経由で川崎の工業地帯へと送り出していた。石灰石を掘り尽くしたら西へ線路を伸ばしてさらに採掘、尽きたら西へと伸びていった。私鉄の青梅鉄道によって、1929年までに御嶽駅まで開通。御嶽~奥多摩(当時は氷川)間は奥多摩電気鉄道が建設を進めていたが、開通直前に国有化され、1944年7月に全線で開通している(奥多摩電気鉄道は奥多摩工業の前身でもある!)。

工場上部まで線路がつながっている (筆者撮影)

 戦争末期の国有化、これは軍事上有用な路線を対象とした戦時買収で、石灰石輸送がいかに国策上重要だったのかがよくわかる事例だ(同時期に南武線も私鉄の南武鉄道が戦時買収で国有化されている)。ちなみに、むかし道のルーツでもある青梅街道も、江戸時代初期の整備の目的のひとつに石灰石輸送があったという。

 青梅線では戦後も長らく石灰石の輸送が続き、平成に入った1998年に終了。その間のわずか5年だけ、線路が先に伸びて小河内ダムの建設にも貢献している。「奥多摩むかし道」に沿った廃線跡は、そうしたアドベンチャーラインとは別の顔の青梅線の歴史の一端を後世に伝えているものなのかもしれない。

 アドベンチャーラインに乗って奥多摩ハイキングは楽しいが、ただ山道を歩くだけではあまりにもったいない。廃線跡を横から眺め、奥多摩の山奥の知られざる歴史にも思いを巡らせてみてはいかがだろうか。

「奥多摩の奥」にも知られざる歴史があった ©文藝春秋