いまから20年前のきょう、1997年9月18日、対人地雷全面禁止条約がノルウェー・オスロでの国際会議で採択された。当時、世界の約70ヵ国に1億1000万個以上の対人地雷が埋設され、毎月2000人以上が死傷しているといわれていた。同条約はこうした状況を改善するため、対人地雷の使用・貯蔵・生産・移譲を禁止し、その廃棄を定めたもの。このあと12月3日にはカナダ・オタワで日本を含む121ヵ国が条約に調印し、1999年3月1日に発効した。

 前年の1996年には、特定通常兵器使用禁止制限条約の地雷議定書が改正されたが、地雷の全面禁止までにはいたらなかった。これに対し、全面禁止に賛成する国だけで条約をつくろうという動きが起こる。96年10月にはオタワにて国際会議が開かれ、その最終日にカナダ外相のアクスワージーが、翌97年12月に当地で対人地雷を全面的に禁止する条約の調印式を開くことを提案。ここから、有志国と非政府組織(NGO)の連合体「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」などが連携して条約づくりが進められる。この交渉過程を「オタワ・プロセス」と呼ぶ。こうして対人地雷全面禁止条約は調印式までこぎつけ、その1週間後、97年12月10日には、ICBLとそのコーディネーターだったアメリカ人市民運動家ジョディ・ウィリアムズにノーベル平和賞が授与された。条約には現在までに163ヵ国が調印、うちマーシャル諸島をのぞくすべての国が批准している。

 日本は当初、防衛庁(現・防衛省)が、地雷はもっとも効率的にわが国の海岸線を守れる手段だという考えを持っていたこともあり、その禁止には消極的であった。しかし当時の橋本龍太郎内閣の外相だった小渕恵三(のち首相)の強いリーダーシップにより、条約に調印する。日本が保有していた約100万の地雷は、2003年2月に廃棄が完了した。

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カナダのオタワで対人地雷全面禁止条約に調印する小渕恵三外相(当時) ©時事通信社

 地雷禁止運動が世界中で高まったきっかけとしては、1997年1月にイギリスのダイアナ元妃がアフリカ南西部アンゴラの地雷原を訪ねたことも大きい(元妃は同年8月に事故死)。しかしそのアンゴラは、対人地雷全面禁止条約を批准しながらも、資金や技術などの不足から地雷除去が遅れているという。条約をめぐってはまた、地雷の主要な生産・使用国であるアメリカ、ロシア、中国、インド、パキスタンが加盟していないことなど、いまなお多くの課題も残されている。