年代の表記は、黒崎健時の記憶違いだろうが、《黒崎個人として引き受けることにした》という記述は、誤認とも違う彼の意志が汲み取れる。
確かに、大山道場の中で、最初にこの話を野口修から聞いたのは黒崎本人である。指導も含む責任ある立場にあったのも間違いはないだろう。
ただし、この一文からは、そういう実務的な解釈とも違う「あくまでも自分の一存」を主張する含意が感じられなくもないのだ。
新格闘連盟の総帥としての気概
自伝『必死の力・必死の心──闘いの根源から若者たちへのメッセージ!』は、著者の黒崎健時が自身の多難な半生を振り返りながら、副題にもある通り、悩める若者への啓発的な要素も含んだ内容で、多くの格闘技ファンに読まれた。1979年刊行とある。
この頃の黒崎は、自らが興した新格闘術連盟の総帥として多忙を極めていた。
前年には、愛弟子の藤原敏男がタイ人以外で初めて、タイ式ボクシング二大殿堂の一つ、ラジャダムナンスタジアムの王者となるなど、師である黒崎健時の名声も高まっていた。
翌年には梶原一騎と組んで、プロレス対極真空手の異種格闘技戦「アントニオ猪木対ウィリー・ウィリアムス」の実現に動き、映画製作にも取り組み、競輪選手の育成にも乗り出すなど、この時代は指導者としてだけでなく、プロモーターとしても絶頂期にあった。出版社もそれを見て書籍化を持ちかけたはずだ。
極真会館の本音
対照的に、黒崎健時の師である大山倍達は、往年のタイ式ボクシングとの対抗戦について、取り立ててコメントを残していない。
ともにタイ式ボクシングとの決戦に打って出た中村忠や藤平昭雄も極真から離れて久しく、対抗戦に直接関わった人間は、このとき、極真会館の内部には一人もいなかった。「実戦空手の総本山」として確固たる地位を築いていた極真空手にとって、今さら往年の他流試合を持ち出されるのは、存外、都合の悪いことだったのかもしれない。「今日の極真会館の繁栄は、タイ式ボクシングとの対抗戦から始まった」と解釈されるのは、『空手バカ一代』で広まった通史を、否定しかねないからである。