日本にキックボクシングを創設し、沢村忠の活躍で空前の大ブーム。さらに、芸能界にも進出し、五木ひろしを世に送り出した稀代のプロモーター、野口修。その数奇な人生を描いたノンフィクション『沢村忠に真空を飛ばせた男: 昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)より、日本に新しい格闘技を根付かせた当時のエピソードを引用し、紹介する。

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キックボクシング誕生

《空手がタイに遠征、タイ式ボクシングと他流試合をする。遠征する空手修行者は極真会(会長・大山倍達八段)の師範代・黒崎健時四段、中村忠二段、藤平昭雄初段の3人で、一行は15日午前9時20分羽田発の日航機で出発、21、30の両日バンコクのナショナル・スタジアムで対戦する。(中略)

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 黒崎四段は「空手はこれまで神秘的なものとして育ってきた。ほんとうのことをいうと、私は空手の強さに対して疑問を持っている。タイ式ボクシングのルールで対戦することは、私たちの方が不利なことはわかっているが、このさい私は空手の強さを身をもってためしてみようと思う」》(昭和39年1月14日付/日刊スポーツ)

 バンコクに到着した3人は、野口修の用意したブンラットジムに滞在することになった。

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 しかし、試合はここでも延期される。

「この時点で、ルールの問題は解決していなかった。記事を書かせたのも、3人をバンコクにやったのも、東京にいたら『やっぱりやめる』とか言い出しかねないから」(野口修)

 佐郷屋留雄の長男の嘉洋が、帰国後に黒崎健時から聞いたところによると、このとき野口修は、全員のパスポートを取り上げて金庫にしまったのだという。

前向きに準備を続ける選手たち

 それでも、中村忠の回想は、至って前向きなものである。

《もっとも、私たち遠征軍にとってはこの延期が結果的に幸いしたといえるかもしれない。試合までの1カ月の間、私たちはたびたびムエタイの試合と試合場を下見することができた。(中略)

 また、タイの選手が住むようなバラック風の建物に1カ月間寝起きしたため、結果的にタイの気候や環境にすっかり慣れてしまった。その上、練習の面でもかなり的確なトレーニングができた》(『人間空手』中村忠著/主婦の友社)

 1月23日には、世界フライ級王者の海老原博幸が、前王者のポーン・キングピッチと戦った初防衛戦に、全員で応援に駆けつけている。