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「『あ、これだ……』って閃いたんだ」“キックボクシング”が生まれた1964年バンコク決戦

『沢村忠に真空を飛ばせた男: 昭和のプロモーター・野口修 評』より #2

2020/11/18

「ルンピニー興行の少し前かな。修から名前をどうするか相談された。というのも、すでにあいつは新しい競技にすることを考えていたから。『タイ式ボクシング』だと格好がつかない。『タイ拳法』も『タイ空手』もパッとしない。

 俺は『東京に本部を置くんだからタイを外せばいいじゃないか』って提案した。そのうちに『蹴りのあるボクシングだから、キックボクシングってどうか』って、あいつの口からふと出た」(スポーツニッポンの記者だった川名松治郎)

必死の力・必死の心

 1964年2月12日、タイの首都バンコクで行われた「タイ式ボクシング対大山道場」の対抗戦は、多くの有識者も言うように、その後の日本の格闘技を変えた。

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 もしくは「ここから日本の格闘技興行が始まった」とも言うべき記念碑的な大会である。

 しかし、必ずしも、正確な情報が伝わっているとは言い難い。

 興行を打った野口修は、開催した事実は述べても、詳細を伝えることにさほど熱心ではなかった。その後、さらに印象的な事績を始めた彼にとって、特に喧伝する必要がなかったからである。

 しかし、そうではなかった人物がいる。

《私の人生を大きく変えたタイ式ボクシングと極真空手との対決マッチの話がもちあがったのは、昭和37年の夏であった。当時、プロモーターの野口修氏は、キック・ボクシングというものを日本に根付かせようと考えており、その手始めとして、日本国内でこの格闘技の中心になる選手や団体を探していた。そして、実戦空手としての極真会館に目を付け、ムエタイと空手との対戦を持ちこんできたのである。いくつかの経緯があって、私はこの話を、黒崎個人として引き受けることにしたのだ》(『必死の力・必死の心──闘いの根源から若者たちへのメッセージ!』黒崎健時著/スポーツライフ社)

 昭和37年夏というと、野口修にとって、ポーン・キングピッチと弟の野口恭の世界戦を終えたばかりで、秋には再戦を実現させようと奔走していた頃である。王者側との駆け引きに翻弄されながら、NETの『ゴールデン・ボクシング』のプロモートにも忙しく、タイ式ボクシングと極真空手の他流試合どころではなかった。