日本にキックボクシングを創設し、沢村忠の活躍で空前の大ブーム。さらに、芸能界にも進出し、五木ひろしを世に送り出した稀代のプロモーター、野口修。その数奇な人生を描いたノンフィクション『沢村忠に真空を飛ばせた男: 昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)が話題を集めている。
ここでは、同書よりキックボクシング誕生前夜のエピソードを抜粋。神秘的な武道として扱われてきた“空手”は本当に強いのか……当時の格闘技関係者の苦悩を紹介する。
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タイ式ボクシング対大山道場
「日本の格闘技の歴史で一番のターニングポイントと言えるのは、昭和39年の大山道場とムエタイの他流試合でしょうね。もし、あれがなければ、その後の日本の格闘技界って全然違ったものになっていたはずです。あれこそが、プロ格闘技の走りなんですよ。
プロレスにだって、UWF的なものは生まれなかったと思うし、極真もあそこまで大きくならなかったでしょう。ということは、僕も空手を始めたかどうか判りません。そうなると、K-1もなかったってことになりますから」(K-1創始者で新日本空手道連盟正道会館館長の石井和義)
野口修が企画した、タイ式ボクシングと日本人空手家の対抗戦は、共通の後見人である佐郷屋留雄の取りなしもあって、大山倍達の率いる極真会大山道場の出場が決まった。
この興行に出場したことで、極真空手がようやく認知されたとする意見は多い。
梶原一騎と大山倍達の関係
『夕やけを見ていた男──評伝梶原一騎』(斎藤貴男著/新潮社)によると、梶原一騎は、《それほど密接な関係だったわけでもなかった》大山倍達に、「今後、先生の話をマスコミに出す時は、全部この俺に任せてもらえませんか。他の人間には書かせないでほしいんです」と懇願し、大山も了承したとある。
それまで、著述者として大山倍達と付き合ってきたのは、作家の森川哲郎だった。帝銀事件の平沢貞通死刑囚の再審運動で知られる人物である。
往年の時代小説の文芸誌『剣豪列伝集』(91号・昭和38年11月1日発行)には「タイ国拳法に挑戦する日本空手道」と題し、特集記事に加え、大山倍達と道場生による座談会が載っている。これも森川の筆による。森川哲郎が極真空手を伝える役割を担っていたことが窺える。
しかし、一行がバンコクから帰国してすぐの、1964年2月下旬、梶原一騎は、自身が連載する少年雑誌『まんが王』(1964年3月号)の「読切連載スポーツ小説・世界のチャンピオン第3回」に大山倍達を採り上げている。
確認する限り、それまで梶原一騎は大山倍達のことを一度も書いていない。バンコク決戦を機に、森川と入れ替わるように、梶原がその任に就いたように見えないでもない。