生前の野口修に自伝のコピーを見せた。窮屈そうに老眼鏡を上下させながら、「中村忠って、まだ生きてんの」と筆者に尋ねた。
「健在ですよ。ニューヨークにいます」と答えると、小さく頷きながらこう言った。
「他の連中とは全然モノが違った。天才でしょう。ハンサムだし」
現代日本の格闘技を救う
しかし、試合は年末まで延期となった。
大山倍達と黒崎健時が「野口は当てにならない」と話していたことを、大山泰彦は前出のエッセイで明かしている。
ただし、どういう理由で延期になったかは、誰も述べていない。延期した事実だけが、それぞれの自伝などで列記されるのみである。極真側の情報だけに依拠すると、野口修がいかに杜撰だったかという結論に帰着する。
「これもまた、ルールが問題なんだよ」
野口修は、うんざりしたようにこぼした。
「山田さんほどではないけど、黒崎健時もルールにうるさくてねえ。話し合いは主に佐郷屋さんの家でやっていたけど、ルールについては、佐郷屋さんも黒崎の肩を持つもんだから、突っぱねることができなかった」
メンバーの一人である藤平昭雄も、後年、ルールが問題になったことに触れている。
《空手はあくまでも素手で結構ということだったのだが、急にグローブをつけて試合を行う、投げてはいけないなど、まったくムエタイ・ルールをそのまま適用してきたのである。これには大いに抗議したのだが、プロモーターの野口氏の顔を立てて、グローブだけはつけることにした》(『大沢昇伝 小さな巨人』松永倫直著/スポーツライフ社)
グローブの着用には合意した黒崎だが、「投げ」と「頭突き」の採用だけは固執した。大山倍達からの指示もあったのだろう。
相次ぐ出場辞退者
試合は年明けにずれこんだ。
これまで一丸となって「打倒タイ式」に取り組んで来た選抜メンバーの足並みも乱れた。一番の年長者でリーダー格の岡田博文と、副将格の大山泰彦が正式に出場を辞退したのだ。
選手を束ねる立場の黒崎健時が、出場を考えるようになったのもこの頃からである。
中村忠も迷っていた。大学の卒業試験に差し掛かっていたのだ。両親は学業を優先させるように言う。悩んだ末に「これ以上あてどない話に付き合わされるより、すっぱり断ろう」と考えた。
師走のある日、意を決して「自分も出場を辞退します」と告げた。