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 それを聞いた大山倍達は、「御両親がそうおっしゃるなら仕方がない。黒崎、君と藤平だけでは人数が少なすぎる。この話はなかったことにしよう」と肩を落とした。

中村忠の決心

《私は館長と黒崎先生の沈痛な表情を目にして、胸を強く揺すぶられる思いであった。(中略)これまで並々ならぬ情熱を注いで遠征を成功に導こうと努力されてきた黒崎先生のことを考えると、自分だけが我がままを言うのは悪いような気がした。私は決心した。「大山先生、仮にこの遠征で卒業できないようなことになっても、僕を行かせてください。大丈夫です。学費くらい自分で土方してでも稼ぎます」

「忠君、そうか、行ってくれるか。ありがとう。どうだ、黒崎、これでタイ遠征は実現可能になったぞ」》(『人間空手』中村忠著/主婦の友社)

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 黒崎健時もこの日のことは印象に残っているらしく、後年次のように回想する。

「中村師範だけが、学校があって、行かねば留年になってしまうと言うときに、『イヤ、いいですよ』と言ってくれた。

 卒業試験が確かあったんだな。それでも、それを蹴って、行くと言ってくれた。うれしかったな」(『フルコンタクトKARATE』1992年11月号)

21歳の大学生が日本の格闘技を救った

 このときの中村忠の決断がなければ、対抗戦は実現しなかったはずだ。いや、野口修のことだからでっち上げた可能性はある。となれば、結局は手駒のボクサーに落ち着いたのではないか。もし、そうなっていた場合、この興行が語り継がれることはなかっただろう。

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 石井和義も述べたように、極真空手が現在のような大組織に発展することも、まずなかったはずだ。その後の日本の格闘技がどうなったか、見当もつかない。

 野口修の人生も、この瞬間に大きく動き出すことになる。

 すなわち、21歳の中村忠が大学留年と引き換えに、大山倍達を救い、黒崎健時を救い、野口修を救ったのだ。