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「憧れたのはウチの師匠だけです」明石家さんまが“高校生”から“芸人”になった瞬間を振り返る

『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』より #1

2020/11/28
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落語家“らしく”なかった松之助

 松之助は、このとき48歳。1948年6月7日、22歳のときに、五代目笑福亭松鶴に入門し、そのわずか12日後に初舞台を踏む。

 1951年11月からは、「宝塚新芸座」で役者として経験を積み、1959年3月に吉本興業へ。「吉本新喜劇」の前身である「吉本ヴァラエティ」という舞台で役者兼作家として活躍すると、1961年4月に松竹芸能に引き抜かれ、「松竹爆笑コメディ劇場」「松竹とんぼり座」の作・演出を手がけ、主演までこなす多才ぶりを発揮する。

 1964年4月に千土地興行へ移籍し、大阪劇場で三橋美智也、畠山みどりらと芝居で共演。大阪の三大演芸会社を軽快に渡り歩いた。

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©iStock.com

 松之助は、『てなもんや三度笠』(朝日放送)の準レギュラーに起用されるなど、テレビや映画の世界でも活躍。1967年3月に吉本興業に復帰してからは、古典落語はもちろんのこと、シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』を翻案した新作落語や、歌舞伎をモチーフにしたコント、人気テレビ番組のパロディコントなどを精力的に舞台で披露していく。

 落語家という枠にとらわれることなく、観客に楽しんでもらえると思えば、新しいものを積極的に取り入れ、なんでも全力でチャレンジする。ひとクセもふたクセもある、一風変わった芸人であった。 

弟子入り

「笑福亭松之助の弟子になりたい!」

 直感的にそう思った高文は、18歳だった1973年秋、松之助に弟子入り志願するため、京都花月の裏にある公園で、松之助が来るのを待った。

 しばらくすると、松之助が姿を現した。松之助は静かな足取りで高文の前を通り過ぎ、公園の先にある楽屋口へと向かう。高文は思い切って松之助の背後から声をかけた。しかし、緊張で上手く舌が回らず、松之助は高文の声に気づかぬまま歩みを進める。高文はとっさに、「ちょっと! ちょっと!」と大声を上げ、呼び止めた。

「なにか?」松之助は振り向きざま、特に驚いた様子もなく返事をした。

「あのぉ、奈良から来た杉本ですけど、弟子にしてくれませんか?」

 松之助は目を丸くして、「落語やりたいの?」と聞き返した。

「はい、あのぉ……」高文は返事に詰まった。

「ほな、今からワシ舞台あるから、ちょっと待っとき」松之助はそう言うと、楽屋口へと入っていった。