押しも押されもせぬ人気でお笑い界のトップを走り続けてきた明石家さんま。彼の功績を語るにあたって、18歳当時の杉本高文(明石家さんまの本名)に出会い、才能をいち早く見抜いた師匠の存在は欠かすことができない。一人の青年はどのようにして、芸人としての“第一歩”をど踏み出したのだろうか。
本人の証言と膨大な資料を精査する“明石家さんま研究”を20年以上続けるエムカク氏による著書『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』より、弟子入りの瞬間を紹介する。
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師匠との出会い
1973年夏、部活を引退し、卒業後の進路を決めかねていた杉本高文は、高校2年生の頃に英語の教師・坂本に言われた一言を思い出していた。
「杉本、おまえ、吉本入れ」
人を笑わせることが何よりも好きだった高文だったが、自分にプロの世界で勝負できるほどの力があるのか、疑問だった。高文はそれを確かめるため、父親が吉本興業の株を持っていた友人・森本に手配してもらった無料招待券を握り締め、吉本興業の主要劇場であるなんば花月へ通い始めた。
若手からベテランに至るまで、あらゆる芸人の舞台を食い入るように観た高文は愕然とする。全く笑えなかったのだ。
高文は、次にうめだ花月へ通うが、そこでも同じ。さらに京都花月へと足を伸ばした。
その日も次々と登場する芸人を、一切笑うことなく見つめていると、突然、軽快でコミカルな出囃子が鳴り響き、その音色に似つかわしくない仏頂面の男が舞台に現れた。
名は笑福亭松之助。
松之助はゆっくりと座布団に座り、深く一礼すると、一気にまくし立てた。
「客席を拝見いたしますと、女性の方も多ございまして。まあ、女性の方と言いましても、全部が全部、若い女性やのうて、ややくたびれかけた方も……あぁ、中にはガタガタの方もいてはりまんなぁ。ガタガタならはよ帰ってウチで寝とりゃあええのに……まあ、我々もガタガタであろうがなんであろうが、女の方が多いと非常に仕事がしやすうございまして。
やはり、男の方とちがいまして、何を言うてもよう笑ろてくれますから、ちょっと言うてもワーと笑ろてね、なんや言うたらワーワーと笑ろて、で、ションベンちびって、なにしとんのかわからん。女性の方は締まりがないからそうなんのんで、そうですから女性の方でこういうとこへお越しになるときには、洗濯バサミで挟んできはったらええねやないかと思うんですが。この前、どこやらでしたかなぁ、公開録音の途中でねぇ、“今日挟んできたけど、それが飛んだ”て知らんがな!」