「師匠はセンスありますんで」
数時間後、舞台を終えた松之助が高文に声をかける。
「ワシの弟子になりたいん?」
「はい!」
「なんでワシの弟子になろう思たん?」
「……いや、師匠はセンスありますんで」
その瞬間、松之助はガハハと大笑いした。
「この世界に入ったらメシ食われへんぞ」
「はい、わかってます」
「ほな、今からラジオがあるさかい、一緒においでぇな」
「はい!」
近畿放送(現・京都放送)のラジオ番組の出演を終えた松之助は、高文を行きつけのラーメン屋へ連れて行き、じっくりと話を聞いた。
「死んだら新聞に載るような有名人になりたいです!」高文がそう言うと、松之助は朗らかに笑い、「ワシといっしょや」と返した。
「さっきも言うたけど、この世界は簡単にはメシ食べられへんで」
「わかってます」高文は、しっかりとした口調で答えた。
「それをわかってんねやったらええわ」松之助は満面の笑みを浮かべ、ラーメンをすすった。
「とにかく親にちゃんと事情を説明して、いっぺん連れてきぃ」松之助は最後にそう言い残し、帰って行った。
松之助「『センスある』と言われたのもホンマ。まだ18やのにそんなこと言うのは生意気やという人もありますけど、僕自身は『俺ってセンスあるんや』とうれしかった(笑い)。彼とは波長が合うんです」(「TELEPAL KanSai」2002年4月7日号)
さんま「(憧れたのは)うちの師匠、笑福亭松之助だけです。この人だけは白紙に戻れるなと思うた。無の状態になれると思いましたんでね。師匠が、四角いもんでも丸いといえば丸やといえる自信はありました。完全に尊敬できるという」(「週刊朝日」1980年5月16日号)
父からの猛烈な反対
高文は帰宅すると、水産加工業を営んでいる両親に事情を説明した。進学しなければ家業を継いでくれるとばかり思っていた父の恒は、声を荒らげて猛反対した。
「俺は落語家になる!」
「許さん! 落語家みたいなもん、誰がならすか!」
高文と恒は互いに一歩も引かず、後日、親戚一同が集まる場で、親族会議が開かれた。
「高文ちゃんやったらやれるんちゃうかぁ」
「いけるいける」
「高文、落語家になれぇ」
反対したのは、恒だけだった。
さんま「親戚一同が『高文ちゃんはいけるでぇ』いうて(笑)、親がこけたちゅうの(笑)! これは有名な話ですけど、ホントに、実話ですよ(笑)」(「JUNON」1990年2月号)
こうして1974年2月、高文は正式に松之助の弟子となり、芸人の道を歩み始めることになった―。