「軍歌の覇王」を生んだ運命の地
今回の朝ドラでは、軍歌の扱いにも注目された。であれば、下関市と北九州市が向かい合う関門海峡にも足を運ばなければならない。
1937年の夏、日中戦争の戦火が上がる最中、古関は妻とともに満洲を旅行した。そしてその帰路、大連から神戸までの船上で、コロムビアから「急ぎの作曲があるから神戸で下船しないで門司から特急で上京されたい」との電報を受け取った。そのため古関夫妻は、言われるがまま北九州の門司で下船し、フェリーで下関に渡り、駅前旅館で1泊して、翌日の特急列車に備えた。
せっかくの船旅が中途半端になってしまったわけだが、これが運命の出会いをもたらした。あくる朝、古関がひさしぶりに内地の「大阪毎日新聞」を取ると、そこに軍歌の歌詞が書いてあったのである。のちに「露営の歌」と名付けられるそれだった。
当時、東京までは特急でも10時間以上を要した。古関は暇に飽かせて、朝方見た歌詞に作曲してみた。先日までの満洲旅行も、そこにインスピレーションを与えた。
「“土も草木も火と燃える”とか“鳴いてくれるな草の虫”など、詩は旅順で見たままの光景で、私には、あの戦跡のかつての兵士の心がそのまま伝わってくるのであった。夏草の揺れ、虫の声もそこにあった。汽車の揺れるリズムの中で、ごく自然にすらすらと作曲してしまった」(前掲書)。
半年で60万枚も売れる大ヒットに
このときは、あくまで暇つぶしだった。ところが、東京について会社に顔を出すと、果たして「露営の歌」に作曲してほしいとの依頼。古関は驚いた。「あッ、それならもう車中で作曲しました」。今度は、ディレクターが驚く番だった。「どうして分かりました」「そこはそれ、作曲者の第六感ですよ」。
こうして誕生した「露営の歌」は半年で約60万枚も売れる大ヒットとなり、古関が「軍歌の覇王」と呼ばれるきっかけとなった。その絶妙なメロディーも、門司で下船し、下関から特急に乗っていなければ、別のものになっていたかもしれない。