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2020/11/27

 そんな歴史を刻む関門海峡周りには、歴史的な建造物が数多く残っている。化粧煉瓦が鮮やかで美しい、大阪商船の門司支店もそのひとつ。建物の角に屹立する八角形の塔は、1917年の竣工当時、門司で一番高い場所だったという。古関夫妻が満洲旅行で利用した「吉林丸」も、同社の所有だった。

 なお当時の門司港は、大陸航路の一大拠点であっただけではなく、やがて出征兵士を送る場所にもなった。桟橋近くには現在、「門司港出征の碑」が建てられている。いわく、200万人の将兵がここから旅立ち、その半数が還ってこなかったと。ここでも「勝ってくるぞと勇ましく」と、「露営の歌」が盛んに歌われたことだろう。

古関メロディーが発信された“内幸町の円”

 最後に、東京・内幸町の交差点に向かおう。あまり知られていないが、ここから半径200メートルの円内で、古関メロディーの多くは発信された。

 日比谷公園の市政会館はそのひとつ。古関がコロムビアと専属契約を交わした当時、同社の文芸部(レコードの企画を決定する重要部署)と吹込所は、この建物内に置かれていた。つまり、「福島行進曲」「紺碧の空」など初期の作品は、ここで吹き込まれたことになる。

 この文芸部と吹込所は、1933年12月、日比谷通りを挟んですぐ右隣の、東洋拓殖ビル内に移された。こちらは現存しておらず、みずほ銀行内幸町本部ビルがそびえ立っている。ここからは、「利根の舟唄」「船頭可愛いや」「露営の歌」など、輝かしいヒットの数々が送り出された。

日比谷公園の市政会館(2017年12月撮影)

 そしてもうひとつ見逃せないのが、市政会館の真向かいにあった、東京放送会館。現在、日比谷シティになっているが、1973年に渋谷の放送センターができるまで、ここはNHKの本拠地だった。

 古関が、戦中から戦後にかけて、ラジオで盛んに仕事していたことはドラマでも描かれたとおり。「英国東洋艦隊潰滅」「比島決戦の歌」、また「とんがり帽子」「君の名は」もまた、この建物が発信源だった。

 このようなオフィス街にも、意外に「エール」関連スポットは隠れている。みなさんは、いくつ知っていただろうか。もちろん、以上はほんの一例。昭和史とともに歩んだ古関の足跡は、あちこちで発見できるはず。以上がそのきっかけともなれば幸いだ。

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