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「月まで走った男」
デビュー戦で「とにかく走ったらええんや」と、先頭に立ってがむしゃらに走ったあの“逃げ”が最高の戦い方だった。
松本のハードトレーニングぶりは有名だった。旧制中学時代サッカー部にいて、足には多少自信があった。父親の勝太郎がコーチ役となった。毎朝京都の自宅から国道1号線を大阪府守口市まで往復80キロ。「月まで走った男」とスポーツ紙で紹介されたこともあった。それでも「トレーニングは8分目、2分目は本番のために残しておく」のだと。
加えて、抜群の記憶力、人一倍の探求心、強固な意志が武器となった。ライバル選手たちの情報や出場した競輪をつぶさに記憶して、理論的に整理、分析する。そのデータをもとにレースのシミュレーションをし、トレーニングのメニューを組み立てる。たとえるなら“ノムさん(野村克也)”の「ID野球」といったところだろうか。
その松本がライバルとしたのが、後述の山本清治(大阪)だった。第4回日本選手権(1951年)の決勝戦で対決し、山本は優勝、松本は8位に終わる。実力は向こうが上と認めつつも、山本を密かにライバルと定め、そのレースについてあらゆる角度から観察と研究を重ねた。以後、互角に戦うことができるようになり、自身の優勝回数も増えていったのだという。
1981年、松本は21歳から53歳まで32年間を過ごした選手生活にピリオドを打った。その間、「失格」は数えるほどしかなく、「落車」も10回程度だった。松本の座右の銘は「勝明、ファンを大切にせよ」という父の言葉。失格、落車、欠場はあってはならないことと自らに課していたのだ。