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所持金は2000円でエベレスト号

 大学入学のため上京して、早速、西銀座にあった自転車振興会連合会で選手登録をしたのが6月13日。登録番号は第587番。そこに各競輪場の成績表があって、優勝者の使用自転車で圧倒的に多かったのが「エベレスト号」だった。その足で本郷本富士町(現・本郷七丁目)の土屋製作所へ。ここで経営者の土屋六太郎・秀夫妻と出会う。あつらえてもらったエベレスト号は、定価1万8000円。松本の所持金は2000円。「学生さん、お金は走ってからでいいですよ」と、1銭もとらなかった。「土屋製作所の払いですか? その年(49年)川崎で完全優勝、その賞金で返済しました。土屋さん夫妻も大層喜んでくれました」。

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 登録して2週間ほど経った頃、鳴尾競輪(のちの甲子園競輪)への出場通知がきた。とにかく練習しなくてはと急いで京都に帰った。だから「授業に出たのは3回か4回かな」。デビューまでの1カ月余り、毎朝5時に家を出て、京都─大阪間の国道1号線を往復したり、比叡山の峠越えをして京都─堅田(滋賀)間を往復したりと、多いときには200キロ、少ないときでも150キロを、ひとりであるいは先輩選手たちと、ひたすら走り込んだ。10日もすると、新品のタイヤが内側の布が見えるほどに擦り減ってしまった。レーサーに乗るのも初めてだった松本。過酷な練習に耐えられたのは、「鋼鉄のようだ」といわれる意志の強さと生来の健脚を持ち合わせていたからだろう。

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 そして初出走。「自転車を押さえてくれた係員から『マツモト、なに震えているんだ』といわれました」。スタートラインに並んだ松本は緊張でガタガタ震えていたのである。1949年7月26日、鳴尾競輪。「2周回ってくればいいんだ」と係員に励まされて、〈とにかく走ったらええんや。陸上競技の千メートル競走のつもりで走ろう〉(松本勝明『千三百四十一勝のマーチ』日刊プロスポーツ新聞社)。「テッポウが鳴って、先頭で飛び出しました」。500メートルのバンクを2周、ゴール前で2人に抜かれて3着。あと2日は4着と6着だった。