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デビュー4年目で賞金王

 熊本県立商業学校(現・熊本商業高校)卒業直前の1949年2月に、熊本でデビュー。18歳だった。その年、2歳上の金哉と2人で大阪へ出た。熊本出身の先輩紫垣正春が大阪へ転籍したうえ、大阪には横田隆雄ら強豪選手がひしめいていた。

「近畿周辺に競輪場が14もあった。九州から往復に時間をかけるより有利だった」

 トッププロになるのに時間はかからなかった。1年目の1949年には早くも100万円を稼いだ。100円が最高額紙幣の時代である。賞金ランキングは第10位だったが、年々順位をあげ、デビューから4年後の1953年度には賞金王に輝いた。獲得賞金は353万2100円だった。

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 引退は31歳のときだった。

「走るからには1着を狙う。スタートラインに並んでその自信が持てなくなった。選手として限界に達したと自覚しました」

 潔い引退だった。最後のレースとなった住之江競輪でのA級優勝戦で2着に敗れた。優勝選手に観客から罵声が浴びせられた。それを聞いてヤマセイは泣いた。ファンに感謝の涙だった。

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「ヤマセイほどファンに愛された選手はそう多くない。彼の真摯なレース態度と、決してレースを投げない責任感、闘志とがファンの共感を呼んだ」と当時の競輪専門誌が書いている。

 引退後はガソリンスタンドを経営するなどしていたが、現在は社会貢献活動に全力投球している。母校、熊本商業高校に奨学資金を贈った。1991年から5年間、総額750万円にのぼる。現在住んでいる大阪府高石市には、96年から児童の就学援助資金や児童図書の購入に寄付を続けている。

 競輪の選手時代から折に触れて記した「ヤマセイ日記」を見せてもらった。

 ・自分の仕事にプロであれ。「その道のプロになるには、人が遊んだり寝ている間も寸暇を惜しんで努力しなければ達成できない」

 ・努力は必ず実を結ぶ

 ・努力に勝る天才なし

 ヤマセイ美学は健在である。

競輪という世界 (文春新書)

轡田 隆史 ,堤 哲 ,藤原 勇彦 ,小堀 隆司

文藝春秋

2020年11月20日 発売