初めての賞金獲得
初勝利は8月5日。同じ鳴尾競輪場で開かれた第1回尼崎市営競輪初日の第2レースだった。9人出場して、先行・逃げ切り。「30メートルもぶっちぎってゴールしました」。
賞金は8000円だった。「当時の初任給が5000~6000円の時代。うれしかったなぁ」。
その年の2月に大阪で創刊した『スポーツニッポン』紙(1部1円50銭)に、その記録が載っている。
〈2甲千m(1)松本1分42秒6(2)坂口(3)肥山
単430、複140、180、170、連2520〉
タイムが載っているのが牧歌的だ。後に、選手が風圧を受ける先頭を避けるようになると、駆け引きが重要となり、タイムはあまり意味を持たなくなった。
〈豊橋競輪場開設記念レースに一流選手を抜かれ、出場選手の顔ぶれに馴染みが薄い〉(同前)とあり、強豪は不在で相手に恵まれたともいえる。とはいえ4戦目で1勝。以後、1981年9月19日、53歳で引退レースを迎えるまで、勝ち星を重ねることになる。その圧倒的な強さのカギはどこにあったのだろう。
松本の戦法は、何といっても「先行、逃げ」だ。
身長は165・6センチ、体重は67・5キロ。当時(1950年)の日本人男子(30歳代)の平均的な体格(身長160・3センチ、体重55・3キロ)からいっても、それほど大柄ではないが、鋭いスタートダッシュの先行と鮮やかな逃げは、まさに競輪の花だった。
自著『千三百四十一勝のマーチ』の中で、自分の性格を「几帳面すぎる、決めたらやり通さなければ気がすまない、情にもろい」と分析し、勝負の世界では「情にもろい」点こそが弱点で、〈他人の力を利用してレースしていたのでは私の情のモロさが必らず顔を出してくることになる。だが自分で逃げの競走をしていれば勝っても負けても責任はすべて自分ひとりのものだといえます〉と語っている。なにごとにも正攻法で向き合う松本が、考え抜いて選び取った戦法が「先行、逃げ」だったのである。