自身が有名になるにつれ、糟糠の妻――つまり、若い時から貧苦を分かち合い、共に老いた妻――を捨て、新しいパートナーとの人生を再スタートさせる芸能人は数知れない。それが報じられる度に世間からは批判の声が上がるが、糟糠の妻と別れるのは、彼らがただ薄情だったり、地位に奢ったりしたからなのだろうか。
ここでは著名人の別れの背景にある事情、本当の思いを読み解いた細田昌志氏による著書『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか?』より、GLAYのTERUの離婚劇を引用、紹介する。
◇◇◇
インディーズ時代から応援し続けていた妻
一歳年下という最初の妻はもともと、インディーズ時代のGLAYのファンだった。
「彼女とはデビュー(’94年)する3年前に知り合いました。俺たちが函館の高校を卒業してすぐ東京に出てきて、まだお客さんが10人に満たないような環境でライブをやっていた頃から見にきてくれていた人です。(中略)デビュー前は、仕事とバンド活動の両立にもすごく不安だったし、挫折しそうになったこともあります。彼女はそういうとき、いつも身近にいて支えてくれた」(『FRIDAY』1997年4月4日号)
TERUくんは当時から、付き合っていた恋人と一緒に住んでいたようだ。2人の生活のため厳しいハツリ屋という仕事を続け、バンド活動もしていた。
(中略)
私はこのとき、初めてTERUくんの恋人の存在を知った。そして彼女のことを、
「なるほど、やっぱりTERUくんが好きになるだけの女性だわ」
と感心した。(『私の中のGLAY』清水由貴著/コアハウス刊)
1993年、TERUはその女性と結婚。翌年一児をもうけている。メジャーデビュー前とはいえ、この頃にはライブハウスにかなりの観客を動員していたGLAYだが、
「この子のためにもっと売れたい。もっと稼ぎたい」
と、この時期のTERUがそう誓っただろうことは容易に察しがつく。それは彼に限らず、雌伏の時代に妻子を抱えた誰もが抱く、共通する決意のはずだからだ。
そして――、その決意に応えるように、突如として運が開けていくのが面白い。
96年に3rdアルバムが初ミリオン
結婚したのと同じ年の1993年、X JAPANのYOSHIKIの目に留まり、GLAYはYOSHIKIが設立したエクスタシーレコードと専属契約を結ぶ。翌年その傘下のレーベル、プラチナムレコードの所属第一号アーティストとして、YOSHIKIプロデュース『RAIN』でメジャーデビューをはたす。ここからGLAYの音楽活動は順調に動き始める。
2ndシングル『真夏の扉』をリリース。初の全国ツアーも成功。3rdシングル『彼女の“Modern…”』をリリース。この作品から、かつてBOOWYやTHE BLUE HEARTSを手掛けた音楽プロデューサー、佐久間正英との共同制作がスタートする。年末に三大都市ツアーを成功。佐久間のGLAY評は、彼らの行く末を見事に暗示している。
「GLAYは、自分たちのやりたい音楽をやっているごく普通のバンドです。やっていく中で、新しいことや今までできなかったことに挑戦している。やりたいことを曲げてまで売れたいとは考えていないんじゃないですか。コンピュータ的な曲よりも、素朴で生身なモノが求められている今の時代に、彼らの音楽やスタイルがピッタリ合っただけ(『GLAY Perfect File 完全白書』Team GLAY 編/千早書房刊)