2006年4月から5月にかけて、秋田県藤里町で起きた連続児童殺害事件。犯人の畠山鈴香は娘の彩花ちゃん(当時9歳)を、自宅近くを流れる川の橋の欄干の上から転落させて殺害した。警察は「事故死」と判断したが、鈴香本人は、誰かに殺されたと主張してマスコミにも取り上げられる。やがて事件も自分の存在も相手にされなくなると、自宅から2軒隣に住む米山豪憲君(当時7歳)の首を絞めて殺害し、死体を河岸に遺棄した。
その後、2児童の殺人で逮捕、起訴された。裁判では「極刑を望む」と自ら宣言しながらも、娘の「事故死」と「心神耗弱」を主張して極刑を回避しようとする。検察の求刑は死刑だが……。その公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。 判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)
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畠山鈴香の犯罪
被告人の本音がどこにあるのか、わからなくなる裁判もある。
秋田県藤里町連続児童殺害事件の畠山鈴香被告の裁判がそうだった。
畠山鈴香は、2006年4月、娘の彩香ちゃん(当時9歳)を、自宅近くを流れる川の橋の欄干の上から転落させて水死。翌5月には、自宅から2軒隣に住む米山豪憲君(当時7歳)の首を絞めて殺害すると、死体を道路脇の河岸に遺棄している。
検察は、住宅団地の一戸建てに二人きりで暮らす彩香ちゃんを日頃から疎ましく思っていた果てに娘を殺害。その後「事故死」と判断した警察の捜査に不満を抱き、マスコミにも取り上げられるなどしたものの、次第に自分の主張が無視されるようになったことから、存在を再認識させる為に豪憲君殺害に至ったものだとする。
一方の弁護側は、自分の子どもを愛したくても愛せない、悩む母親と弱い女性としての被告人を強調。事件当日、溯上するサケを見たいといってきかなかった娘を連れ出し、欄干の上に昇らせたものの、突如「怖い」といって抱きつこうとした娘を、思わず振り払ってしまったための「事故」だったとする。
「自分が汗のかけない体質で、汗かきの彩香が急に迫ってくるのが怖かった感じです」
鈴香もそう主張する。
その直後に、出来事の重大性から咄嗟に記憶を失う「解離性健忘」に陥った母親は、娘がいなくなったと騒ぎだし、水死体発見後も「事故死」と判断した警察に再捜査を求めるも、進展はなかったことから、捜査を促すために事件を引き起こそうとして豪憲君を殺害したものとする。絞殺までに至ったのは、被告人の心神耗弱によるものだと主張していた。
被告人も初公判の罪状認否で、その旨を主張し、被害者、遺族に謝罪の言葉を述べ、
「この公判の間、私がどれくらい変わったかを米山さんに見て頂いて少しでも感情が和らいでくれたらと思います」
と、傍聴席に豪憲君の遺影を抱いて座る両親を意識しての発言も目立った。
ところが、だった。