文春オンライン

連載昭和事件史

「これは臭くてたまらない。まずいぞ」コーヒー色の“黒い紅茶”が生み出した「日本初の青酸カリ殺人」とは

――“流行”さえも生み出した「青酸カリ殺人事件」 #1

2020/12/06
note

「あやしいまでに享楽的な街」だった浅草

「現場は浅草目抜きの雷門前、仲見世の入り口で市電、青バスの終点であり、21日は朝から晴天で相当の人出があり、店内にも3、4人の客がいたが、怪青年が逃げた際は通行人も近所の人も誰一人、気がつかなかった」(東日)。事件の舞台となった浅草は大正時代から昭和初年、光り輝く街だった。

 1929年出版の今和次郎編纂「新版大東京案内」はこう記す。「浅草は万人共楽の楽天地だ。誰でもが肩のこりを解き、タガを緩めて楽しめる所だ。浅草以外の盛り場は市内にも幾カ所とあるが、浅草ほどの民衆的の歓楽地はない。東京一はもちろん、日本一の盛り場といってよかろう」。観音さまがあり「昼間の浅草は仲見世、花やしき、木馬館、公園の中などを子ども連れ、家族連れで遊び回る家族的遊覧地」。「明るい灯の街となるや、この天地はあやしいまでに溌溂(はつらつ)として活気を呈し、享楽的となる」(同書)。

「六区」と呼ばれた地区には約30の映画館、劇場があり、当時の新作映画は全国でも2、3館でしか封切りしなかったが、浅草では必ず封切りがあった。

ADVERTISEMENT

当時の浅草・六区の映画街はこのようににぎわっていた(「大東京寫眞案内」より)

「昭和10年というと、六区興行街ではエノケン(榎本健一)のピエルブリリアントという劇団が松竹座を常打ちにして東京一の人気を誇っていたし、それに対抗する『笑いの王国』では、庶民的な笑劇が古川ロッパを中心として、軍需工業の発展で懐が温かくなった層の人気を得ていた」(加太こうじ「昭和犯罪史」)。

 奥には遊廓「吉原」があり、当時浅草の人出は平日で20万人とも40万人ともいわれた。さらに「飲食店が多いのも全市第一等である」(「新版大東京案内」)。「要するに浅草は、昼夜に渦巻く明暗の灯りの中に、人間の喜怒哀楽を一つに溶け込ませる大きな歓楽のるつぼである」(同書)。

「また学生や未成年者向きの飲食店もあった。雷門通りの森永キャンデーストアや雷門前の明治製菓の喫茶部(売店)などがそれである。この事件は、そういう時期のそういう盛り場で起こったのである」と「昭和犯罪史」は書く。

明治製菓雷門売店(「明治製菓の歩み 創業70年」より)

 東日に載っている見取り図を見ると、現場の明治製菓売店は浅草の表玄関である雷門の向かいの大通りの角。「明治製菓の歩み 創業から70年」には「昭和2年、東京・横浜市内8カ所に『明治製菓』名の販売所を設置」とあり、浅草もその1つだったようだ。同書には「雷門売店(昭和3年)」の説明が付いた写真が載っているが、3階建てだろうか、こうこうと明かりがついて華やかな雰囲気だ。