新しい文化だった「喫茶店」
さらに、喫茶店という存在自体がこのころ都会に広がった新しい文化だった。
日本における喫茶店は1888年、東京・下谷黒門町に登場した「可否茶館」が初めだとされる。関東大震災後に急増。初田亨「カフェーと喫茶店」に載っている「東京市統計年表」によれば、東京(旧市部)の喫茶店は1923年に55店だったのが、翌年は159店と3倍に。1929年には4ケタになり、事件が起きた1935年には2479店に達していた。
雑誌「セルパン」同年8月号で作家・田村泰次郎は「喫茶店縦横談」にこう書いている。「喫茶店、ことに大喫茶店の流行は大変なものである。今日では、喫茶店はもう文学青年のシェストフ的(主体的不安を意味する当時の流行語)洞窟から、現代人の『街のサロン』にまで解放された」「小市民の共通の応接間であるばかりでなく、ついさきごろまでは、料理屋やカフエでなくては商談の弾まなかった実業家や商人の安直な取り引きやタイアップの打ち合わせ場所でもある」。
12時間後、待合で逮捕
事件に対する警視庁の見方が東日に「計畫(画)的な犯行 捜査の範圍(囲)は狭い」の見出しで載っている。「犯人は、増子校長が職員の給料を受け取りに行く毎月21日のこの日を知悉している(よく知っている)者、校長が電話で快く会見を約した点は、校長を知る何人かの紹介か? 21日が学校職員の給料払い渡し日だと知る者は学校関係、あるいは区役所関係の事情に精通せる者と推定され、当局はこの点に重点を置き、捜査を進めており……」。
展開はその読み通りになる。象潟署に設置された捜査本部は「紅茶の受け皿に残っていた滴汁を採って警視庁鑑識課で化学試験をした結果、明らかにその残汁に青酸カリの含有を認め」(11月22日東朝朝刊)、捜査を進めた。その結果――。東日は翌11月22日付で号外を出した。
校長毒殺犯人捕る スピード檢擧(検挙)に揚る凱歌 “戦慄の青酸加里” 犯罪史上空前の兇行 顔見知りの出入商人
警視庁当局は重大犯罪山積の折柄とて、面目にかけても急速に解決すべく、(21日)午後4時50分に至り新聞記事掲載を差し止め、全力を挙げて犯人捜査中のところ、京橋署員の有力な聞き込みを得て、捜査陣は勇躍活動の結果、犯人は浅草区千束町2ノ295、足袋商、遠州屋・鵜野洲吉次郎長男・武義(27)と断定。その行方を捜査中、同夜11時20分ごろ、浅草区象潟町1ノ13ノ1、待合「しのぶ」こと橘千代さん方に立ち回ったところを難なく逮捕。取り調べたところ、犯行を逐一自白した。かくて帝都未曽有の怪奇事件として騒がれた事件も、わずかに12時間で犯人が逮捕され、スピード的解決を見、今暁2時、記事差し止めを解除。捜査陣にはドッと歓声があがった。