前例のない犯罪
犯行は非常に計画的に行われたらしく、犯人は増子校長の内ポケットから名刺入れをも奪い、自己の名刺を残さぬ用意までしていた。届け出に接した象潟署では、前記の服装で面長でやせ型の男という人相書きで犯人の非常手配をするとともに、毒薬入りの紅茶は捨てたので、コップの底と料理場に流れた紅茶を集めて分析することになった。犯人は増子校長と紅茶を飲んでいる際にも両手に軍手をはめていたことも明らかになったが、指紋を残さない、あくまで周到な用意をしていた。なお、検視の際、増子氏の懐中から青年学校の俸給245円だけは現れた(同)。
まだこの時点では毒物が何かは特定されていない。東日には、診察した横田医師の談話が別項で載っている。「現場に駆け付けた時は午前10時35分で、もう心臓も止まり、脈もほとんど感知することができず、最後の呼吸が2つ3つあったぐらいで、同午前10時37分に息を引き取られました。死因は薬殺とみられますが、こんな短時間に効果の現れる薬を聞いたことがありません。とにかく疑問です」。
医師の視野に青酸カリが入っていなかったことは明らかだった。「当時はまだ、青酸加里が嚥下(えんげ=飲み下す)寸時にして死ぬ猛毒であるということは、一般にはあまり知られていなかったので、特殊の職業上、その猛毒を知る者が自殺に用いた例はあったが、これを犯罪に使用した前例はなかった」(「警視庁史昭和前編」)。
行政官候補と目されていた被害者
被害者の増子校長については、東朝と読売に略歴が掲載されている。「福島県安達郡和木沢村大字高木の生まれ。明治45年、青山師範を卒業後、浅草・富士小学校の訓導(教員)を拝命。昭和3年、首席訓導として浅草・柳北小学校に赴任。同5年、浅草・新堀小学校長に栄転。8年9月、現在の柳北小学校長となった」(読売)。
実はこの人物には当時はかなり知られていただろう「歴史」があった。富士小の訓導だった1923年9月1日、関東大震災が発生。生徒約1800人を抱える同小は当時はまだ珍しい鉄筋コンクリート4階建で、地震には耐えたが、その後の火災で内部が全焼した。
増子訓導は同僚の酒井源蔵訓導と協力して、焼け跡を整理。10月1日から児童約300人に「青空学級」を実施した。増子訓導はその成果を酒井訓導との共著「樽を机として」として早くも同年12月に出版している。いわば教育面で「震災復興」を体現した人物であり、「温厚な教育者で視学(地方教育行政官)候補者と目され」(読売)ていた。