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連載昭和事件史

「これは臭くてたまらない。まずいぞ」コーヒー色の“黒い紅茶”が生み出した「日本初の青酸カリ殺人」とは

――“流行”さえも生み出した「青酸カリ殺人事件」 #1

2020/12/06
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当時は校長が教師の給料を区役所に取りに行っていた

 21日午前10時ごろ、浅草区向柳原町、市立浅草柳北尋常小学校長、増子菊善氏(48)は雷門2ノ15の浅草区役所に、同日支払うべき同校教員の11月分俸給3050円と青年学校の俸給245円、計3295円を受け取りに行き、会計課で現金を受け取り、教員の俸給の方はハンカチに包み、青年学校の方は懐中に入れ、区役所内から何者かに電話をかけ、雷門、明治製菓売店で面会することを打ち合わせて帰って行った。

 東朝、読売は、増子校長が区役所で現金を受け取っていた時、誰かから電話がかかってきたと記述。警察の正史である「警視庁史昭和前編」も、区役所会計課に増子校長宛ての電話がかかり、2度目の電話に校長が出たとしている。

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 驚くのは、教師らの給料を校長がまとめて区役所に取りに行っていたこと。市立学校の場合はそれが慣例で、そこで増子校長は他校の校長と会話も交わしている。それにしても無用心な気がするが……。

「これは臭くてたまらない。まずいぞ」

 やがて午前10時半ごろ、明治製菓では、階下北側の電車通りに面したボックスに、無帽、絣(かすり)の着物に黒のロイド眼鏡をかけた27歳ぐらいの男が待っていて、喫茶店雇人、梅原きしえさん(20)に紅茶2つを注文。自分の分にはミルクを入れて飲んでいたが、10分ほどたって増子校長が同店に入ってくると「ヤー、先生ですか。どうぞこちらへ」と声をかけ、名刺を交換し、2、3分の間、話をし、増子校長は紅茶を一口飲むと、「これは臭くてたまらない。まずいぞ」と言うと、右の青年は「それでは捨てた方がいい」とウエトレスの梅原さんを呼んで取り替えさせた。その時、既に紅茶の中には毒が入れられていたものらしく、紅茶は黒くコーヒー色を呈しており、間もなく増子校長は「ああ苦しい」と言いながら立ち上がり、2、3歩歩いてその場に昏倒した。くだんの青年は介抱するふうを装って「先生が大変だ」と言いながら側に寄り、抱きかかえていたが、突然テーブルの上の金包みをかっぱらって「自動車だ、自動車だ」と大声をあげて円タクを呼ぶふうを装い、表に飛び出し、吾妻橋方面に向かって逃走した。同店では、増子氏の倒れたのを見て驚き、付近の大橋医院の横田医師を招き、手当てしたが、横田医師が駆け付けた時には既に虫の息でヴイタカンフルを注射しても間に合わず、間もなく絶命した(東日)。