だが、そんな風に鳴り物入りで大学に入学すると、そこには羽生にとって「予想外だった」スポットライトが待っていたという。
「高校と大学では、競技のステージも当然、変わるじゃないですか。競技レベルはガラッと変わるのに、周りからは急に“黄金世代”ともてはやされて。いかにも『自分たちが一番速い』みたいな感覚になってしまった。今思うと、スタートから躓いてしまったように思います」
「大学駅伝」という人気コンテンツが持つ怖さ
日本の長距離界において、箱根駅伝をはじめとした大学駅伝というステージが持つ光の強さは、他の追随を許さない。良くも悪くもその人気はすさまじく、羽生はその眩しさに捕らわれることになる。
「高校卒業間際、大学が決まって都大路あたりは『まずはトラックで結果を残したい』と思っていたんです。でも、大学に入って取材を受けたりするうちに段々それがブレだして。トラックで結果を残したいのか、駅伝に出たいのか…わからなくなってしまった。結果論ですけど、今思うとどこに重点を置けばいいのか自分の中でもわからなくなっていたのかな」
そして少しずつ、羽生の中で歯車が狂い始める。
小さな故障を繰り返し、復帰しようと無理をしては、また故障の悪循環。それでも周囲は“黄金世代”の看板を外してはくれない――。1年目から活躍を見せる同期たちの姿も、焦りへと繋がった。
「やっぱり最初は周りと比べてしまう部分もありました。館澤(亨次)とか鬼塚(翔太)、阪口(竜平)とかは、周りに持ち上げられてもそれに甘んじないで、ちゃんと気持ちを切り替えて結果を残していましたから…」
そうして徐々に羽生の名前は、報じられる機会も少なくなっていく。大学1年目の全日本大学駅伝を最後に、駅伝メンバーからも遠ざかっていった。
「ひどい時はケガをして、治って、チームに合流するためにリハビリしている時にまたケガをしたりしていましたから。チームの練習よりかなり質を下げた練習だったんですけど、それでもケガをしてしまう。そう考えると、ケガ以上にモチベーションの部分でも下がっていたのかなとは思います。
そんな風に十分に走れていなかったので、うまくチームに溶け込んでいけた感はなかったですね。自分からチームメイトと距離を置いていたところもあったし、居心地悪いなと思った時もありました。自分の結果が出ていないので、当然のことなんですけど…」
苦しい時間が続いた大学での4年間
結果的に、羽生は大学4年間で大きな実績を残すことはできなかった。
最大の檜舞台である箱根駅伝も1度も走ることができず、2019年に東海大が初優勝を飾った時も、それを外側から眺めるしかなかった。
駅伝ファンの脳裏からも、少しずつ羽生という存在が消えかかっていた。