そもそも、『ジェイン・エア』における「成長」は現代の私たちの成長の観念とは異質であることを押さえておく必要があるだろう。ジェインは雇用主のロチェスターと最終的には結ばれるのだが、それは単に二人の「精神的対等」が成立するからではない。
ジェインは物語の後半で隠された遺産を手にし(この隠された遺産というプロットは、ディケンズなど同時代の作家も多用した)、経済的・階級的にもロチェスターと「対等」になっているのだ。19世紀において「階級上昇」と「成長」は切っても切れない関係にあった。
そのような時代の制限はあるものの、『ジェイン・エア』は伴侶との「対等」を求めるジェインのフェミニズム的な衝動が感動的な物語だった。では、『クイーンズ・ギャンビット』はどうだろうか。
20世紀では「集団からの離脱」が“成長”とされてきたが
階級上昇と成長とが切り離せないのが19世紀なら、20世紀の教養小説はむしろ、階級であれなんであれ集団から離脱して、個人が根無し草になっていく物語を中心とするようになった。例えばJ. D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)のような小説を考えればいい。
だが20世紀終わりから21世紀に入って、成長は経済的なものと再結合されているのかもしれない。自由市場の中で個人が力強くサバイブすることを強調する新自由主義においては、単なる「離脱」は落伍と破滅しか意味しないのだから。とりわけ21世紀の女性の教養小説においては、労働市場における女性のサバイバル能力を不問に付すような物語は説得力に欠けるだろう。
21世紀のベスには、ジェインに与えられたような隠された遺産はない。あるとすればたぐいまれなチェスの才能である。それによって彼女は社会において自己実現していく。だが後で詳しく述べるが、チェスで勝つことは自己実現であるどころか彼女の苦しみの原因になってしまう。
名目上、男女平等が達成された後の「女性の物語」
『ジェイン・エア』と『クイーンズ・ギャンビット』がそれぞれに女性の自己実現物語であり、その限りにおいてある種のフェミニズム的物語であるとするなら、『クイーンズ・ギャンビット』は現在「ポストフェミニズム」と呼ばれる意味でのフェミニズム物語に属する。
ポストフェミニズムとは1990年代以降、名目上は(あくまで名目上は)女性の差別の問題は解決され、あとは能力主義的な労働市場において個人が努力をして自己実現をすることが「フェミニズム」の目標の達成なのである、という考え方の流行のことだ。