「助力者」としての男たちと、依存することを学ぶこと
1960年代、冷戦のまっただ中で、ベスの最終的なライバルとなるのはソ連のチェス・マスター、ボルゴフである。
当初ボルゴフは一分の隙もない、ミスをしないマシンのような棋士として描かれる。これは、旧来のソ連表象の定石であろう。ボルコフは、冷徹な完璧さを持っていると同時に、集団で試合に当たる。試合会場のホテルの部屋で、他の選手たちと戦略を徹底的に練っているところが、ベスによって目撃されるのだ。ここには、アメリカ的な熱い個人主義とソ連の冷たい集団主義というおなじみの対立があるように見える。
だが、ベスがボルゴフに勝つ最終的な決め手は、ベスが個人主義を乗り越えて、別の集団主義を見いだすことである。モスクワ大会で窮地に陥ったベスのもとに、これまで彼女にチェスで屈辱的に打ち負かされた男たちから電話がかかってくる。彼らは、ベスのために集団で棋譜を検討し、ベスに戦略を授けるのだ。
ベスはここで、ポストフェミニズム的な個人主義もしくは依存の否定を乗り越えて、依存することを学ぶ。
そのように述べると、この物語は男に依存する女、という旧来の枠組みに舞い戻ったと思われるだろうか。そうではない。なんといっても、ベスを助ける男たちは、登場時にはみな鼻持ちならない人物であったのが、彼女に徹底的に打ち負かされ、文字どおりに鼻っ柱を折られている。一種の去勢をされた男たちだ。
私は『鬼滅の刃』についてのこちらの記事で、ポストフェミニズム時代の男性性の一大特徴に、「助力者」となることがあると論じた。例えば宮崎駿作品が分かりやすいだろう。現代の「戦う姫」の原像とも言うべきナウシカの周辺には、アスベルやユパといった、彼女の「助力者」となることに積極的な意味を見いだしていると思しい男性たちがいた。
『千と千尋の神隠し』のカオナシは、そのなれの果てだ。カオナシは、主人公千尋の助力をすることを欲望し、拒絶されて暴走する。このような男性像は、ポストフェミニズムの「強い女性たち」に対応する形で生じてきた新たな男性像である。
このような「男らしさ」の新たなあり方を肯定するか否定するかはともかく、『クイーンズ・ギャンビット』ではポストフェミニズム的個人主義の限界を乗り越えるために、そのような男たちへの「依存」を学ぶという最後の一手が指されている。
だがその一手はチェックメイトではない。現代の女性性と男性性をめぐる試合はまだ続く。その中で、このドラマの指した一手の指ししめす方向に何があるかを見極めるのも面白いかもしれない。