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 そこでは例えばFacebookのCOOであるシェリル・サンドバーグのようなエリートや、ビヨンセやエマ・ワトソンのようなセレブたちがフェミニストであることを宣言し、それこそがフェミニズムだということになっていく。

 そういったポストフェミニストたちは、かつてのフェミニストとは違って女性性を否定はしない。むしろ堂々と女性性を高めながら権利を宣言する。 ※

 ベスが、個人の戦いであり、しかも男社会であるチェス競技会でなみいる男性たちを打ち負かし、キャリアの階段を昇っていくこと、しかも孤児院と高校ではさえない感じだったベスが、プロの棋士として勝ち上がっていくと同時に垢抜けた服装を身にまとって女性性を高めていくこと──初潮の場面はそれを表現してあまりある──はこのドラマがポストフェミニズム時代の女の教養小説であることを物語っているだろう。 

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※ポストフェミニズムについては菊地夏野『日本のポストフェミニズム』(大月書店)、高橋幸『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』(晃洋書房)、河野真太郎『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)を参照。 

誰にも頼ることなく、生き抜くことを求められる主人公

 だが、このドラマの真価はさらにその先にあると私は考えている。私はこのドラマは、例えばもうひとつのポストフェミニズム物語である『アナと雪の女王』の「先」を考察するものだと思っている。

『アナ雪』のエルサはポストフェミニズム的キャラクターである。彼女は飛びぬけた能力(魔法の力)を持ち、アナが象徴するディズニーの旧来的女性性(結婚=幸福)を否定し、逃走する。しかもそのような「解放」の瞬間にドレスを魔法で作りかえて女性性を高める。しかし、エルサはそのために孤独に苦しむことになる。 

 それと同じような孤独の苦悩を『クイーンズ・ギャンビット』のベスは抱え続ける。このドラマではその苦しみは「依存症」によって表現されることが特徴だ。ベスは孤児院で処方された鎮静剤への依存から脱することができないし、彼女の養母ウィートリー夫人のアルコール依存と相まって、彼女の人生はさながら依存症の蟻地獄のようである。 

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 彼女の依存症は、新自由主義的ポストフェミニズムの個人主義のコインの裏側というべきだろう。ベスは、勝ち抜き、生き抜くためには誰にも依存することなく自分だけの力に頼らなければならない。そのような依存の禁止が、薬物への依存を昂進させる。 

 私は『クイーンズ・ギャンビット』はそのような袋小路の先へと進もうとしており、その点でこそ現代のフェミニズム的「女の教養小説」たり得ていると考えている。