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エルサの孤独を救ったのは、アナとの愛だったが

 彼女の孤独を解決する方法には何があるだろうか。異性愛の結びつきという解決は、ポストフェミニズムの時代が禁じている。現代の「戦う姫」はそもそも旧ディズニー的な白馬の王子との結婚を選択肢からはずすところからスタートしているのだから(これについては、そのような禁じ手を使ってしまった『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』についての記事を参照)。

『アナ雪』はエルサの孤独を、アナとの「愛」で解決した。ベスにそのような連帯は与えられているだろうか。 

 じつのところベスは、彼女の個人の自己実現のためだけに戦うわけではない。彼女は、叶えられなかった「母たち」の願望を受け取って戦うのである。

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 母たちとはまず実の母。ベスの実母のアリスは、第一話の回想シーンの一瞬の映像で示されるように、コーネル大学(言わずと知れたアメリカ随一の大学)で数学の博士号を取っているが、明確には説明されない理由で夫と別れ、トレーラーハウスに住む貧困生活を送っている。ベスの母は、時代が時代ならエリートのポストフェミニストとしてガラスの天井を破って活躍していたかもしれない。

 また、ベスの養母ウィートリー夫人は、ピアノのプロを目指したが、あがり症でかなわず、出張で留守がちでついには帰ってこない夫の不在の中、アルコール依存症となっている。彼女のアルコール依存は、ベスの薬物依存とは意味が違う。ポストフェミニストのベスの母世代の、キッチンで酒に浸る専業主婦を、ウィートリー夫人は表現している。 

 ベスはこの二人の叶えられなかった自己実現の願望を受け取っているといえる。その限りにおいて、ベスの戦いは孤独ではない。これは立派な連帯の一形態だ(ただしこれは両義的で、「母の願望を押しつけられる」というのは、それはそれで地獄かもしれないのだが。この両義性は両義性のままに受け止めるべきだろう)。 

 これだけではない。『クイーンズ・ギャンビット』はその結末において、近年のポストフェミニズム的物語が到達し得なかった連帯の形を提示する。(以下、ドラマの結末について述べるので注意されたい。)