「日本の法律は日本人を守るためにあるんだ」
火傷騒動以降、妻がようやく落ち着いてきたと思っていた茂には、まさに青天の霹靂だったろう。なにしろ、詩織との結婚間もなく両親が焼死し、親族との遺産をめぐる激しい諍い。それに加え離婚話。あげくの果てに命も危ぶまれた大火傷。そうした数々のトラブルを乗り越え、ようやく生活を立て直せそうだと思えた矢先だったからだ。
〈茂さんは「子どもはお前にはあげられない。何故ならお前には金銭的にも育てることができないからだ」と言いました。
私は「働いて育てる」と言い返しました。
茂さんは嘲笑いながら「お前が工場で働いたぐらいでは子どもを育てるために十分な金なんて得られない。だから子どもは渡さない。それに離婚したら俺は再婚する。そうなれば子どもたちには継母ができる。お前はそれが心配じゃないのか?」と言いました。
私は負けずに「裁判をして子どもの親権をとる」と言い返しました。
すると茂さんは「ここは日本だ。日本の法律は日本人を守るためにあるんだ。俺が子どもの親権が欲しいといったら、裁判所は必ず俺に親権を与える。信じられないんだったら、一度やってみればいい」。〉
茂さんが親権を主張するのは私を力で押さえつけるため
こうした茂の物言いは、詩織の感情を逆撫でし、一層の反発心を煽るだけだった。詩織が育った中国は、日本人が考えるよりもはるかに激しい弱肉強食の世界だ。勝ち抜かなければ生きていけないという厳しい歴史を何千年も重ねてきたのだ。詩織はそうした中国人の激しい性格のDNAを受け継いでいる。
〈「そんな事をいっても、あなたは体が良くないでしょう。火傷もしたし、子どもを養育するのは体力的にきついわ」
「火傷はもう治った。だから、理由にはならない。それより子どもたちが継母にいじめられたりしたら、可哀相だろう。そのことを良く考えろ!」
茂さんは私のいちばん弱い所をよく知っています。子どもの親権問題はいつでも私の敏感な神経に障ります。
子どもは私から離れたがらないでしょう。でも、それ以上に私が子どもから離れることなど考えられません。それに、茂さんが子どもの親権を主張するのは、けして子どものためではありません。私を、力で押さえつけるためであり、何度も離婚を求めた私に報復し、精神的に苦しめるためなのです。
でも、今回ばかりは退くことはできません。私が本来持つべき自由や幸福を勝ち取るために、けして屈してはいけないのです。茂さんは、純真な心で来日した22歳の私の初々しい翼を折りました。それと同時に私の心も麻痺し、死んだも同然になっていました。ですが私の心は蘇り、翼がまた生えてきました。心の翼はもう折れることはありません。〉