例のクスリ
詩織は、間髪をいれずに久美子に「そのクスリが欲しい」と申し出た。ところが久美子は「しばらく待つように」と言ったきり、その後は髪の毛が伸びたとか、間もなく夫が退院するなどという話しかしなくなってしまった。
じりじりと時が過ぎてゆき、詩織は、久美子のクスリの話が本当かどうか疑うようになっていた。だが久美子は約束を違えなかった。2月末のある日、久美子から突然、電話がきたのだ。
〈例のクスリが入ったという知らせでした。
「でも、これは注射薬よ」
「注射‼」
「旦那さんに風邪の特効薬だとか何とかいって、注射するのね」
「冗談でしょう。私ができるわけないじゃない」
「なら、旦那さん自身にさせたら?」
「茂さんが注射するのを見ているのも耐えられないわ」
「となると、睡眠薬かなんか用意して……」
私たちの会話はどこか浮つきながらも熱を帯びたものになっていました。私は、妙な可笑しさがこみあげてき、とうとう我慢できずに声をあげて笑いだしました。
あの時の2人には、いたずら小僧がうるさい大人に一泡ふかせようという悪だくみをするのに似た雰囲気がありました。どこか隠微な楽しさ。だから私の中には、他人を傷つけるというイメージは浮かんでいませんでした。
茂さんが病気になって再び入院。その間に私はすべきことをして、全てがすんだとき、彼も徐々に回復してくる。それが一番理想的だと漠然と考えていただけです。〉
こうして茂に投与されるインスリンは準備されつつあった。
そもそもインスリンとは
さらに、久美子は、2人が謀議した時、口にした睡眠薬も用意していた。茂に注射する際、茂が眠っていたにしても痛みなどで目覚める恐れがある。ならばインスリンを打つとき睡眠薬で眠らせておくのがベストだ。久美子は詩織をそう説得したのだ。
ところでインスリンとは、そもそもどういうものか。ここで簡単に説明しておこう。
日本には現在およそ237万人の糖尿病患者がいる(厚労省08年統計)。予備軍まで含めるとその数倍ともされる、まさに国民病である。
糖尿病は、すい臓から出されるインスリン機能がうまく働かないこと、さらに血中のインスリンがうまく消費されないなどという理由から、血液中のブドウ糖濃度が病的に高まって、発症する病気だ。
ひどくなると失明したり、足の先端などが壊死、その部分を切断せざるをえなくなったり、さまざまな深刻な症状を引き起こす。現在、この病気が蔓延しているのは、飽食により体内消費以上の栄養過多が生じているため、と推測されている。
初期の段階では、飲み薬や食事療法でインスリンを排出させて、すい臓の機能回復をはかることが出来るが、一定以上病状が進んだり、すい臓の機能の弱い人は、人工的に注射などでインスリンを体内に注入しなければならない。ただこの注射も過度の量を打つと、低血糖を引き起こし重篤な脳障害に陥らせ、生命の危険に及びかねない。