ローランドが佇めば、木枯らしが吹き抜ける冬の街にだって花が咲く。憎たらしいくらいに華のある男だ。イベントが増える季節を前にしてイメージチェンジ、それまでは肩にかかるほど長かったブロンドヘアを顎のラインまで短くした。だが髪を切ってもローランドはローランド。撮影現場の前をパトカーが通り過ぎると、優雅に微笑んで手を振った。

 1992年、東京都八王子市で生まれたローランドは高校卒業後、周囲の反対を押し切って縁もゆかりもないホストの世界に飛び込んだ。すると歌舞伎町の最年少記録を次々に塗り替え、それがさも当然であるかのように、ホスト界の頂点にまで登り詰めた。そんな男の存在をメディアが放っておくわけがない。あっという間にローランドは“時代の象徴”になり、存在自体がブランドと化した。

 

 だが今から10年前、彼はプロサッカー選手を夢見て、名門・帝京高校でひたすらボールを追い続けていたのだという。この男は、一体何者なのだろうか――。自伝的漫画『ローランド・ゼロ』(宝島社)を刊行した彼に、“ローランドとなる前”の半生について振り返ってもらった。(全2回の1回目/後編に続く

ADVERTISEMENT

◆ ◆ ◆

 小さい頃はどんな子供だったかと尋ねると、「もう無敵だと思ってましたね」と、ローランドらしい言葉が返ってきた。「サッカー少年で、基本的にすごく明るいタイプの子どもだったかな。あとは選民思想というか、自分はどこか他の人とは違うぞというようなところもあって。でもこのときは本当に、地元とか、東京都でも、サッカーですごいちやほやされて、自分って才能持ってる側の人間なんだろうな、というふうには思っていて」

 少年時代は八王子の街で、ひたすらサッカーに明け暮れていた。「サッカーは10年くらい、本気でやっていましたね」。さらりと口にするが、中学時代にはJリーグの下部組織チームにも所属していたという。本気でプロを目指していたのだ。

 

「小さい時から公園で、サッカーの練習がないときも毎日トレーニングしてたんで、その風景をすごく覚えています。足も速くて、小学生のときは誰からもサッカーの天才だ、絶対プロになると言われていたんで、自信がありましたね。周りから言われたら、自分もそういうふうに思うじゃないですか。女の子と遊ぶぐらいだったらサッカーしてたほうがいいっていう考えでしたし、将来こんなに女の子大好きになるとは思わなかったですよ、自分が(笑)」

「僕はもう母が一番大事ですよ」

 そんなローランドは、ミュージシャンである父親の背中を見て育った。仕事や仕事道具に対するプロフェッショナルとしての姿勢を父から学び、今も尊敬しているという。彼の幼少期について語られた記事では、よく父親とのエピソードが登場する。そこで、やっぱりお父さんが好きなのかと尋ねると「全然比べ物にならないぐらい、断トツで母のほうが好きです。僕、インタビューでは結構母の話もするんですけど、父の話の方が採用されやすいだけで」。

 歌舞伎町ホストというイメージのせいか、これまでローランドの言葉はしばしば実際よりもオラついた横柄な口調でメディアに書かれてきた。だが本物のローランドは非常に丁寧で知的な話し方をする。本人の美意識で演出されるものも当然あるにせよ、彼の言葉には、きちんと躾けられた家庭の香りがする。