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石破茂氏の対応に「全身の力が抜けた」理由

――かなり大声で歌わないといけないですね(笑)。そして河野さんのキャリアの中でぜひ伺いたいのが、「あたご」事件についてです。2008年2月にイージス艦「あたご」が漁船と衝突し、漁船は沈没。船長ら2名が亡くなりました。当時、海上幕僚監部の防衛部長だった河野さんはマスコミ対応も担当されていましたが、事件後に更迭されています(5年後、刑事裁判ではあたご側の無罪が確定)。

河野 そうですね。

――本の中では、そのときの防衛大臣の対応に「全身の力が抜けた」と書かれていますが、当時は石破茂さんですよね。石破さんというと、一般には軍事マニアで安全保障に理解がある方だと見られていますけれども、河野さんはちょっと違うご見解をお持ちなのかなと思いました。

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河野 あの事故が起こった直後に、幹部が全員大臣室に呼び集められて、「とにかく説明責任を果たせ」と言われたんです。なので、たとえば上級司令部の護衛艦隊幕僚長を現場に行かせて、どんどん情報を上げさせたりしたんですよね。その一環として、時の上層部が現場の航海長をこちらに呼ぼうと判断した。そのことを事前に石破さんが知っていたかどうか、私はわかりません。知っていたと言う人はいますが……。ともかく、航海長を呼ぶということは、彼から大臣に直接説明させるということです。

 ただ、いきなり大臣というわけにもいかないから、まずはお前が聞けと言われて、私が航海長から話を聞いたんです。それから大臣室に行かせたんですよ。私は大臣室に行ってないので、中でどういう話になっていたのかはわからないですが。

――そのことが、のちに問題になりました。

河野 考えてみれば、それはそうですよね。航海長は事故の、ある意味被疑者になるわけです。それを現場から、捜査機関である海上保安庁の了解もなく呼んできて話を聞いているわけですから。ただ、当時現場にいた私としては、石破さんが強く「説明責任を果たせ」と仰っていたので、そのための判断なのかなと、特に違和感は覚えなかったんですが。

 

 ただ、このことは国会でも大問題になりまして。そこで「なぜ航海長に会ったのか」と聞かれた石破さんは、「海幕が航海長から事情を聴いていると聞き、隠蔽が疑われるといけないので、自分が航海長から直接話を聞いた」とお答えになったんです。私としては非常に寂しかったですよね。

今も自衛官から人気がないのは事実

――石破さんが大臣だったときは、安全保障に詳しいから助かったというような経験もあまりなかったですか?

河野 総裁選挙のときも、石破さんは自衛官から人気がなくて、嫌われているというようなことが、よくマスコミに出ていましたよね。あれはやっぱり、事実としてあるんですよ。その一つはこのときの対応ですし、イラク派遣のときもいろいろあったみたいです。私はそのとき中央にいなかったのでわからないですけど。

「あたご」のときもはっきり言って、白旗をすぐに上げられたわけです。原因がまだわからないにもかかわらず、ともかく自分は遺族の方のところへ行って、艦長、海幕長も謝罪に行かせて、福田総理まで行ってるんです。でも、まだ原因がわかっていないわけですから。もちろん亡くなられたことに対して、お悔やみは絶対申し上げなきゃいけないと思いますが、まだ謝罪という段階ではないと思うんですよ。

 

 そうした状況だったにもかかわらず、謝罪をされたことによって、石破さんは遺族の方々にとってのスターになってしまった。ただ、われわれから見ると、大将と思っていた方が白旗を上げるどころか、向こうの大将になっちゃったという印象で。置き去りにされたという感じはありました。

――防衛大臣には、さまざまな政治家が就任しています。河野さんは、当時防衛大臣だった稲田朋美さんについて「信念の強い方」だと、百田尚樹さんとの対談のなかで仰ってますけれども(「領土は渡さない」『WiLL』2016年10月号)、いまからみてどのようなご評価でしょうか。彼女の在任中には、日報問題などもありましたが。