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――そのときは海幕防衛課の防衛班にいらっしゃった?

河野 防衛班の下っ端班員でした。その当時のことは強烈な印象として残っていまして。これはいくら言っても信じてもらえない、行動で示す以外ないなと。でも、その行動する機会さえ与えられないだろうなとも思ったんです。ただ、そうだとしたら、自衛隊にいることに何の意味があるのかなとも思いました。当時まだ三十数歳なんですけどね。自衛隊にいること自体に、絶望感がありました。

 

 その後にペルシャ湾派遣がありましたが、これも猛烈に反対されたんです。でも、やっぱりそれでいいにつけ悪いにつけ、自衛隊の行動がマスメディアに出るようになったんですよ。反対運動はありましたけど、そのときから徐々に、自衛官の顔が国民に見え出したなと思います。

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阪神淡路大震災はまだ“過渡期”だった

――95年には阪神淡路大震災があり、それをきっかけに自衛隊の姿はかなりメディアに映るようになりました。

河野 ただ、阪神淡路のときはまだ過渡期だったんです。だから、このとき何が起こったのかというと、自衛隊の出動が遅れたんですよ。それは、確証がないので本の中でも明言はしていませんが、やっぱり自治体側からの要請が遅れたからだと思います。

 というのも、当時の自衛隊は、自治体からの要請がないと動けず、外にも出られなかったんです。95年の段階では、自衛隊を動かすことにまだ躊躇があったということです。でも今では、災害が起きているのに自衛隊の姿が見えなかったら、「遅い!」と言われる時代ですよね。

 

――そうですね。だいぶ変わりましたね。

河野 本当に、ここまで来たんですよ。私が防大に入ったのは昭和48(1973)年ですが、その3年前に三島事件がありました。それとは逆側のムーブメントとして、連合赤軍とか、東大安田講堂とか、国際反戦デーとかがあった。そういう時代ですよね。しかも当時、シンガーソングライターの方が作った、『自衛隊に入ろう』という、自衛隊を揶揄する歌も流行っていました。

 そういう世相のときに私は自衛隊に入って、いろんな経験をさせていただいた。そして今や、自衛隊にいい印象を持っている国民が9割になっている。その変化を振り返ると、自分の人生は無駄ではなかったといいますか……。その現場に立ち会えて本当に良かったなと思っています。

写真=末永裕樹/文藝春秋

後編に続く

統合幕僚長 我がリーダーの心得

河野克俊

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