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昭和20年で線を引く人と引かない人

河野 稲田さんという人は、いろいろと批判する人もいるじゃないですか。でも、私は国家観とか、安全保障観とかは、一致するんですよ。だから私はお仕えしていてよかったと思います。

――稲田さんの国家観でここが共感するというところをひとつ挙げていただくと何になりますか。

河野 保守、保守と言いますけど、二つあると思うんです。端的に言えば、昭和20年で線を引く人と引かない人。保守のなかでも、戦前は暗黒で100パーセントダメだったという人も多い。でも、私は線を引かないんですよ。

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 そんなね、歴史に線を引くなんていうおこがましいことをやるべきでないと思うんです。すべてわれわれ受け継いでるんですよね、いいにつけ、悪いにつけ。それを戦前は知らない、俺たちの話じゃないんだという態度はとるべきじゃない。私、稲田さんと話していて、稲田さんも同意見だと思います。安倍総理もそうだと思います。ちょっとおこがましいですけどね。

 

――稲田さんは防衛大臣のとき、国会で教育勅語を肯定的に語って批判もされました。

河野 でも、教育勅語って、夫婦相和しで、父母に孝行しなさいって、そこはなぜ悪いのか。教育勅語の内容も吟味せずに、戦前に作られたものだから基本的に全部、あれは軍国主義だと言うのは、私は短絡だと思いますよ。

戦後初めての命題を突きつけられた湾岸戦争

――そうした経験もありながら、河野さんは防大卒業以来、40年以上に渡って自衛隊に勤めてこられました。その中でも、これは一番大変だったということを挙げるとすれば、何になるでしょうか。

河野 そうですね……。それこそ私が生まれた昭和29年に自衛隊は発足しているわけですが、それからずっと、憲法9条のくびきを引きずっているんです。だから、自衛隊は存在するだけでいいんだ、国益を背負って動くなんてことは考えるなという時代が長くありました。そうした中で一番の、戦後初めての命題を突きつけられたのが、湾岸危機、湾岸戦争でした。

 

 このときは自衛隊を派遣する、しないで大論争になりました。自衛隊を海外に派遣したら、もう明日から軍国主義だという意見も出てきて。それで結局、迷走の末に自衛隊は派遣できませんでした。日本は自衛隊の代わりに1兆5000億円もの資金を出しましたが、後にクウェートが「ワシントン・ポスト」に掲載した感謝広告に、日本の名前は載っていなかった。それで時の政府も、このままだと日本は孤立するぞと騒ぎになったんです。

 あれがやっぱり、自衛隊の歴史の嚆矢だったと思います。そこから、自衛隊はオペレーションの時代に入ったんです。ただこのときに、ある種私は挫折を味わいました。「いつか来た道」「蟻の一穴」「軍靴の足音が聞こえる」と……。いや、そうじゃありません、自衛官も普通の人間なんですということを言っても、全く信じてもらえなかった。「いやいや、あいつら何をやってるかわからんぞ。海外へ行かしてみろ、また戦前の二の舞だ」とね。